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世帯年収1000万円以上の家庭でも、間違った投資を行えば窮地に立たされる! 株で大失敗をして、自宅マンションを泣く泣く手放しても残債が残ったというMさん。市内で一番豪華な新築マンションから家賃6万5000円の木造ボロアパート生活に転落したご夫婦を救ったのは不動産投資だった。転落のきっかけからその復活までの軌跡を赤裸々に語っていただいた。
山一證券の破たんで4000万円が半値以下に
夫婦で協力して不動産投資を行っている、東京にお住まいのM・Fさん。ご主人は50代後半で奥様であるM・Fさんはご主人と同年代。お子さんは男の子が2人で、長男はすでに社会人として独立しているが、次男はまだ大学生で教育費がかかっている。
所有する不動産は都内に4戸の木造アパートを1棟。それから地元である北国に相続予定の実家がある。現在は、物件の情報収集と管理をM・Fさんが行い、定年退職までに物件を増やすべく活動しているそうだ。そんなサラリーマン投資家としては、ごく一般的に見えるご夫婦だが、じつは20年近く前に株で大損をしているという。
「当時は私たち夫婦の出身地でもある北国の某市に住んでいました。きっかけは主人の同級生が証券会社に勤めていたことです。1980年代のはじめのころ、勧められてバブル前に株を購入しました。まだインターネットはなく電話や店頭販売をしている時代です。1000万円くらい買っていたのですが、バブル景気で大きく儲かりました。その後、本来なら手を引くべき時期に、まだいけると思って、借金までして株を買い足したのです」
今では考えられないことだが、当時の銀行は株を買うためであっても融資を受けることができた。金利4%以上だが、このときは住宅ローンの金利も最高で8%と、もっとも高金利な時代だった。
「1000万円借りることができて、手持ち資金と合わせて2000万円をつっこみました。そしてバブル崩壊から、山一證券の破たんと続き、気が付けば4000万円ほどあったはずの株は、半値以下になっていました。夫婦で茫然としました。あの頃の心境は今でもよく思い出せません……」
当時の世帯年収は1000万円以上、地方であれば余裕のある贅沢な暮らしを送ることができる。東京であれば億ションクラスである5000万円の新築マンションに住んで、毎年の家族旅行はハワイで車はアウディ。まさに絵に描いたようなエリートサラリーマン一家だったのが、転落の一途をたどった。
「1998年のことです。いよいよローンの支払いがままならなくなり、住宅ローンを組んで買ったマンションを任意売却で手放しました。新築で購入した素晴らしいマンションです。泣く泣く売ったのに、それでも残債が700万円ありました。その後、住むところがないので、まず私の実家に一家で転がりこみました」
ちょうど同じタイミングで、業績悪化のためご主人の勤める支社が統廃合でなくなり東京へ単身赴任することとなった。
「私が実家で働きながら2人の子供を育てていましたが、1年程で実家を出て築年数不詳のボロアパートへ引っ越しました。というのも、実家は田舎で娘が子どもを連れて出戻っているのは外聞が悪いというのです。冬になると雪が吹き込むようなボロボロのアパートに住みながら必死で働きました」
たまたま購入していた戸建てが家計を助ける
そんなときに助かったのは、地元に購入した戸建ての存在。バブル前に購入した株が、一番儲かったときに、利益を確定して1500万円の戸建てを買っていたそうだ。不動産投資の意識はなく、儲かった金を形に残しておきたかったという。
「購入してから家賃6万5000円で貸していました。今思えば、利回りはさほどありませんね。マンションを売った時に、その家に住めれば良かったのですが、入居がついていたこともあり、私たちは、アパートを借りて住むことになりました。ここの家賃が6万5000円で、戸建ての家賃と相殺できます。700万円の残債は、金利が高いこともあり、月々の返済が11~12万円もあったため、とても助かりました」
当時、次男は小学生でまだまだ手がかかり、長男はこれから受験を迎える時期で、教育費も必要だった。
「主人はともかく私の収入はたかがしれていますから、土日を使って副業をしました。友達のエステの店を手伝って資格をとって、こっそり週末起業したんです。今は厳しいですが、当時はエステで割賦販売が可能でした。いわゆる何回かのコースがセットになった販売法で、安定的に売上をつくることができました」
M・Fさんは当時、国民生活金融公庫(現、日本政策金融公庫)で300万円融資を受けて、マンションの一室を借りて開業。その後はコンスタントに月100万円を売上げていたそうだ。
「今は美容系のクーポンなど価格破壊が起こっていますが、当時のエステは高額なものでした。店長を雇っていたため、純利益は20万円程度でしたが、1年半くらいがんばって、最終的に店長をしていた子に300万円で店の権利を譲りました。融資を受けていたので、お金はさほど残りませんでしたが、その1年半でかなり借金が返済できたのと、上の子の大学の入学金になりました」
その後、次男の中学入学にあわせて、一家で上京することになる。実家に1年、ボロアパートに4年間住んでその間に借金500万円を返した。
一家で上京してアパートを購入
これまで単身赴任をしていたご主人と共に、社宅に住むことになったM・Fさん。東京は家賃が高いと聞いていたが、社宅は会社が全額負担ということで、地元暮らし時代に比べて、むしろ節約になった。
「私も東京で新しく仕事を見つけ、夫婦共働きして残りの借金を払いました。その時思ったのは、借金でどん底までいったのにもかかわらず、戸建てがあったおかげで家計が非常に助かったということです。週末起業もある程度は稼げましたが、すごく大変でしたので、やっぱり家賃収入はいいなと実感しました。そこで、同じように東京で物件を買ったらいいのではないかと思ったのです」
こうして、改めて不動産投資をスタートさせることになるが、当時は区分所有マンションをキャッシュで購入することを目標としていた。
「もう失敗したくない、借金はコリゴリという思いが強くありました。そして、主人がたまたま見つけてきた23区内にある4戸の小さなアパートを2007年に購入しました。売値が1500万円、家賃15万円で利回り10%です」
資金は、田舎の戸建てを売却して捻出した。戸建ては、空室になったタイミングで売り出したところ、購入時と同じ価格で売れたため、利回りはさほどなかったものの、トータルで見ればプラスとなる。
「バブル前に買って、バブル後に売ったので変わらなかったのだと思います。当時購入したアパートは、家賃が下がって今は13万円ですが、順調に経営できています」
ご主人が定年退職になったら、地元に戻るというM・Fさん。そのときのために、地元で物件が欲しいと、数年前から探している。
「去年くらいから急に値段があがっていますが、物件情報は常にチェックしています。今は難しいタイミングなのかもしれませんが、良い物件があれば是非買っていきたいと考えています」
自宅を手放すという、いわばギリギリまで追い詰められたMさん一家だったが、戸建てが生活を助け、東京にアパートも取得できた。これからも堅実な投資を続けていきたいという。
1980年代に夫婦で株を買いはじめ、バブル崩壊から山一證券破綻で、所有する株が暴落。その後、借金が払いきれなくなり任意売却で自宅を手放す。
築年不詳のボロボロの木造のアパートに住みながら、必死で借金返済を進めて、その後、東京にて4戸の一棟アパートを現金で購入。今は働きながら新しい物件を探している。
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