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歴史は繰り返すものだ。経済においても同様のことが言える。それならば、経済の動きや不動産投資の歴史を学べば、今後の投資活動の参考とできるはずだ。平成も終わろうとしている今こそ、改めて不動産投資の歴史を学び、来る時代につなげていきたい。

時代の転機に不動産投資市場はどのように動いていたのか。投資家たちは何を考え、どのように行動していたのか。リアルな声とともに振り返る。今回は、バブル期とその崩壊といった激動の時代に迫り、歴史を紐解く。

1.個人投資家の誕生

「個人投資家」と呼ばれる存在は、いつごろ誕生したのだろうか。

明治時代、「地租改正」により、それまで国のものだった土地を個人が所有できるようになった。不動産投資の先駆けは、江戸時代の裕福な商人が長屋を庶民に貸し出していたことだと言われているが、明治以降の「貸家」「賃貸住宅経営」と言えば、土地を所有する地主によるものを意味するようになる。

◎投資用ワンルームマンションが登場(1970年代~)

1962年、共用部、専有部、および土地の持ち分の権利関係などについて定めた「区分所有法」が制定されて以降、国内では複数回に渡ってマンションブームが起こるなど、一般の人々にも住居としてのマンションが定着していった。

一方、投資先としてのマンションはというと、1970年代にはいわゆる「投資用ワンルームマンション」をサラリーマンが購入して賃貸するという投資手法が生まれていたようだ。当時は、地主でない個人が1棟モノに投資するという事例はほとんどなく、不動産投資と言えば区分マンションが主流であった。

なかでも1976年ごろに竣工し、現在も稼働している賃貸物件「メゾン・ド・早稲田」と、同物件の開発・販売を手がけた「マルコー」は、投資用ワンルームマンションの先駆けとして有名である。また、このときすでに、オーナーに代わって管理業務を代行するというビジネスモデルも確立されていた。

こうしてマンション投資は注目を浴び、以降、多くの会社が投資用ワンルームマンションを展開していくことになる。

メゾン・ド・早稲田外観

 

証言.1 区分投資の生き字引・芦沢晃さん—

「『メゾン・ド・早稲田』は私の投資指標」

私の知る限り、マルコーが手がけた「メゾン・ド・早稲田」は日本で初めての投資用ワンルームマンションだと思います。当時私はまだ収益物件を所有していませんでしたが、この物件は昔の「下宿」をグレードアップしたようなものだと思いました。その頃流通していたファミリー向けの区分マンションとは違って、実に簡素なつくりで、「マッチ箱のような建築」というのが正直な感想でした。一方、立地条件は非常によく、「これは建物というより『便利な空間』を提供するビジネスとして確実に成功するだろう」とも感じていました。

売りに出された当時、一戸あたりの価格は1000万円程度だったと記憶しています。その後、90年のバブルで何倍にもなった後、流通価格は2000年頃に500万円程まで落ちましたがそれが底値で、今はまた1000万円前後まで上がっています。入居の状況もよく基本的に満室、家賃も当時からほとんど変わらない6万円前後で推移しています。この事実は、「収益還元価値」というものが実在するという証左になると言えるのではないでしょうか。この物件は、私にとって今も「投資の指標」になっています。

2.バブル景気はこうして生まれた

1970年代半ばには登場していたワンルームマンション投資。とはいえこの頃はまだ、地主でない個人が不動産に投資することはまれであった。

しかしその10年後、「バブル景気」の到来により人々はこぞって不動産を買い漁ることになる。続いてはバブル景気の発端を、「プラザ合意」にまでさかのぼって見てみよう。

◎バブル景気の発端となった「プラザ合意」(1985年)

「プラザ合意」とは、1985年9月、米英独仏日の5カ国によって発表されたドル高是正のための合意である。その名称は、会議の会場となったアメリカ・ニューヨークの「プラザホテル」にちなむ。

この合意の背景にあったのは、1980年代前半、アメリカ経済を悩ませていた巨額の財政赤字と貿易赤字。

アメリカは当時、「レーガノミクス」の名の下、軍事費の拡大と同時に大減税を推し進めており、これにより財政赤字が拡大。さらにインフレ抑制のために高金利政策を取ったことから、海外の投資マネーが流れ込んでドル高が進行、貿易赤字も膨らんでいた

当時のアメリカにとって、貿易赤字の要因となるドル高の是正は急務。そしてそのためにアメリカが取った選択が、先進国による市場への協調介入(各国によるドル売り)であった。これを取り決めたのが「プラザ合意」である。

プラザ合意後、たった1日で円・米ドルのレートは20円ほど下落し、以後、為替レートは安定化していった。

◎「公定歩合」引き下げで好況へ(1986年~)

プラザ合意の直後、今度は日本が急激な円高に見舞われ、輸出産業を柱としていた経済はいわゆる「円高不況」によって大打撃を受けた。以降、日本は輸出に頼らない内需主導型経済への転換を迫られることになる。

その第一歩として、日本銀行は1986年に「公定歩合」(民間の金融機関への融資に適用される基準金利)を5.0%から4.5%に引き下げることを決定。これを皮切りに、公定歩合はその後何度も引き下げられ、翌年には戦後最低の2.5%まで下がっていく。

すると、銀行から民間への融資は一気に拡大。さらに政府が打ち出した経済対策も刺激となり、徐々に景気は上向いていく。後に「バブル」と称されるこの好況は、このときに始まっていた。

◎「土地神話」を背景に「財テク」がブームに(1986年~)

好景気や金利の引き下げにより、企業が設備投資などを活発化させた結果、金融機関はその資産規模を急拡大させていった。この頃から銀行は、不動産に多額の融資を出すようになる。

背景にあったのは、当時の日本に強く根付いていた「土地神話」。国土の狭い日本では土地こそが最も貴重な財産であり、この先も値上がりを続けるのだという言説である。土地神話を信じた企業は次々と金を借りて不動産を買い漁り、銀行も次々と金を貸した。

こうした状況が重なり、商業地を中心として地価は値上がりを続けていく。不動産価格も急騰し、「朝4000万円で買った物件が、夕方には1億円で売れた」、「日本の土地すべての値段で、アメリカを4つ買える」などと言われた。

こうした状況から、当時の「不動産投資」は、家賃収入などのインカムゲインではなく、売買の差額によって利益を得るキャピタルゲインが主な収益源であった。これこそまさに「バブル崩壊における大きな失敗」につながるわけだが、土地神話を疑う者は少数派であった。

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