アーケードで覆われた十条銀座商店街(著者撮影)

これまで全国650以上の市町村に足を運び、まちの特徴を見てきたという鳴海行人さん。交通事業者やコンサルタント勤務等を経てフリーとなり、現在は「まち探訪家」として、「まち」や「交通」をキーワードにウェブメディアへの寄稿を行っている。

本企画では、鳴海さんが個人的に注目しているまちに、不動産投資家の代わりに足を運び、そのまちの開発状況や歴史についてレポートする。エリアを検討する際の参考の1つとして役に立てていただきたい。

都心へ好アクセス、2路線利用可能

今回「注目のまち」として取り上げるのは東京23区の北部、北区・十条です。

十条駅はJR埼京線の池袋と赤羽の間に位置し、池袋まで2駅6分、さらに新宿へ12分、渋谷へ17分でアクセスが可能です。また、東京都心の西側だけでなく東側へのアクセスも悪くありません。JR埼京線十条駅から徒歩10分弱の場所に位置するJR京浜東北線の「東十条駅」を利用すれば、上野・東京・新橋・品川へも1本で行くことができ、非常に利便性の高い場所です。

「十条」と聞いてピンと来る人は少ないかもしれません。しかし、このまちは「下町的な雰囲気」と「今後の再開発計画」が上手く同居する、ポテンシャルのあるまちなのです。今回も、筆者が十条に注目する理由について、まちの様子のレポートと共に順を追って紹介していきたいと思います。

お惣菜天国「十条銀座」

十条駅には北口と南口がありますが、特に栄えているのは北口の北西にある「十条銀座」商店街です。ここは約375メートルのアーケード街になっており、食料品・日用品・日用衣類の店を中心にさまざまな店舗が建ち並び、平日昼間でも多くの人が行き交うなど活況を呈しています。

十条銀座のアーケード内は多くの人でにぎわう(著者撮影)

中でも惣菜を扱う店舗が目立ち、安価に提供されていることで人気があります。飲食店も多く、サラリーマンをはじめとした昼間働いている人には優しい商店街と言えるでしょう。

十条銀座で目立つ惣菜店。価格も安い(著者撮影)

そして十条銀座の北側にあるのが「十条富士見銀座商店街」です。こちらはアーケードこそありませんが、環状7号線に突き当たるまで商店街が続いています。十条銀座と合わせると約600メートルの長さとなり、十条のまちにおける「軸」となっています。

十条周辺に分布する商店街。東にはJR京浜東北線の「東十条駅」がある

十条銀座商店街の北側に位置する「十条富士見銀座商店街」(著者撮影)

さらに、十条銀座から東西に延びる通りも魅力的です。西へ伸びる「十条仲通り商店街」や十条駅をかすめて東へ向かう「十条中央商店街」は、それぞれ独特の雰囲気があります。特に十条中央商店街では中東料理の店や中東の料理店や大衆演芸場といった、普通のまちでは中々お目にかかれないものを見ることができます。

十条中央商店街にある大衆演劇を行う「篠原演芸場」(著者撮影)

実は十条と隣接する東十条の周辺には、バングラデシュ人を中心にさまざまな国籍の人が居住しています。十条のまちを歩いていると、時折インドを始めとした南アジア系の人を見かけます。国際色豊かなまちでもあるのです。

住宅地としては低層の家屋が多く、かなり密集した住宅街です。商店街と併せていわゆる「下町的雰囲気」がある場所と言えるでしょう。実際そうした雰囲気から、近年十条銀座はメディアの取材も多くなっています。

軍需工場と戦火を免れた商店街

こうした十条の街並みは、「軍施設」によって生み出されました。

1876年、十条の南側に「陸軍板橋火薬製造所」が開設されます。この場所が選ばれたのは、近くに流れる石神井川の水流を工場の動力源として利用するためでした。その後、日露戦争中の1905年、大量の武器弾薬を製造するために火薬製造所の東に銃砲製造所、火具製造所が東京都心から機能を移転する形で開設されました。また、1910年には十条駅も開業します。

こうして一気にさまざまな施設ができ、十条にはこれらの工場へ勤務する職工の人々が多く住むようになったことで、地域は大きく発展していきました。そこに更なる人口増をもたらしたのが、1923年の関東大震災です。被災した人々が、十条にも多く移り住みます。1923年から1927年にかけて、十条駅の1日あたり乗降人数は約8000人も増加しています。

銃砲製造所跡地に残る赤煉瓦の壁(著者撮影)

住む人が増えると消費が活発になり、商店街が発達します。軍事施設ができたころから形成された商店街は人口の増加で急速に発展し、1935年の東京商工会議所の調査では東京市内(当時)の商店街のうち「主要ナルモノ十七」に選ばれるほどになっています。当時の東京市内にある商店街は約50と言われており、十条の商店街はその中でも大きなものであったといえるでしょう。

当時の商店街の長さは約650メートルと、「十条銀座」商店街と「十条富士見銀座商店街」を併せた長さとほとんど変わらず、また店舗の割合も食料品の小売店と衣料品の小売店で75%を占めており、現在とあまり変わらないように思われます。ただ、特徴的だったのは物価の安さでした。周辺のまちに比べると2割ほど安かったために、板橋や池袋方面から電車でやってくる人も多かったといいます。

その後、第二次世界大戦の空襲で東京各地は大きな被害を受けます。当然、軍の施設が多くある十条周辺のまちも空襲を受けますが、幸いにも商店街は戦火を免れました。そのため戦後早くから賑わいを取り戻していきます。1977年には約375メートルのアーケードを設置、ほぼ現在と同じ商店街の姿になります。

なお、板橋火薬製造所や銃砲製造所ほか軍の所有地だった場所は米軍の利用地を経て学校や公園などに生まれ変わり、現在は駅を利用する学生の姿を多く見るような場所になり、豊かな公園も生まれました。これが、十条のまちの姿と形成史です。

銃砲製造所跡地の一部は公園になっている(著者撮影)