コラムニストデビューは2018年2月7日。現在の投稿コラム数438本、コメント数1万2500件で、コラムについた「いいね」数2万2300件、コメントについた「いいね」数5万4700件はともに歴代1位。この1年半強で一躍、名実ともに楽待を代表するコラムニストとなったのが「地主の婿養子大家」さんだ。

一棟マンションから一棟アパート、戸建、区分店舗、一棟ビルまでほぼ全ての物件をフルローン・オーバーローンで購入し、総投資額は25億円。220戸中157戸を自主管理、稼働率は98%を維持し、家賃年収は1億9000万円に上る。

コラムでは14年の大家歴で培ったノウハウを惜しみなく提供し続けているが、実は「本格的なインタビューを受けるのは初めて」。今回は、これまであまり語られることのなかった「過去」、そしてコラムニストとして確固たる地位を築き上げた「現在」、そこから思い描く「未来」について聞いた。

「野球」が全てだった学生時代

――今回はまず「地主の婿養子」になる前のお話から教えてください。

出身は兵庫です。小学5年生ぐらいから悪い仲間とつるんで遊ぶようになって、中学時代は家にいた記憶がほとんどありません。でも野球は頑張っていたので、夜中の3時、4時ぐらいまで仲間と遊んだ後、朝6時から野球の朝練に行くというような毎日を送っていました。特に仲の良かった仲間の何人かは悪い道に進みましたね。僕も野球がなかったら今頃、インテリヤクザだったかもしれません。

――高校時代は野球一色だったそうですね。

地元の強豪私立だと学費が高いので、島根県の高校に入学費・授業料免除の特待生で入学しました。島根を選んだのは、学校数が少なくて甲子園に行ける確率が高いと思ったから。入学直後の技術測定で先輩から「夏にはレギュラーになれる」と言われたものの、理由は分からないのですが監督からは冷遇されて、一度も練習に参加させてもらえず1年間、球拾いだけの毎日でした。

1年の冬明け、当時の主将が監督に「アイツを練習に入れてやってください」と直訴してくれて、2年の春にようやく練習に参加できるようになりました。その後、春の大会ではレギュラーになれたんですが、大会直前にケガをして試合に出られず、苦しい日々を送りました。ただ、誰よりも練習は頑張っていたから、2年秋の新チームでは主将に選ばれたんです。

――それだけ部員からの人望があったということですね。

たしかに、県外組が主将になるのは結構珍しいことだったみたいです。その後、主将として臨んだ秋季大会1回戦の相手は、夏の大会で先輩たちを破った2年生チームで、その秋の優勝候補でした。もちろん下馬評では圧倒的不利。その試合、僕は主将でありながらレギュラーから外されていました。しかし、終盤に途中出場して決勝タイムリーを打ち、大番狂わせを演じたんです。

試合後、寮に帰ると、今でも忘れられない出来事がありました。地元から試合を観に来ていた親父が「よく頑張った」と言って僕の手を握り、号泣したんです。生まれて初めて見た親父の涙でした。

親父は野球が大好きだった。離れた地で試合に出られず苦しんでいる僕に何もしてあげられないことが、心の底から悔しかったんだと思います。親にとって子どもがどういう存在なのか…それを初めて知った涙でした。あの日があったから今があると言ってもいいぐらい強烈な出来事で、それからはどんなにつらいことがあっても平気で乗り越えていけました。

将来を決めたオーストラリアでの出会い

――卒業後の進路はどうしたんですか?

現役の大学受験は納得のいく結果が出せず浪人したんですが、4月から毎日3、4時間睡眠で必死に勉強していたら、模試では大阪大A判定が出るぐらいまで偏差値が上がったんです。でも11月のある日、予備校から寮に戻ったところで腹に激痛が走って大量に嘔吐し、四つん這いで痛みに耐えていたらそのまま意識を失いました。27時間後、部屋を訪ねてきた友達に起こされました。

センター試験まであと2カ月。それからも毎日のように腹痛に耐え、嘔吐しながら勉強していたんですが、彼女にフラれたクリスマスの翌日から38度の熱が続きました。試験の数日前に腹痛が限界に達し、電柱にしがみつきながら歩いて病院へ行くと、診断は破裂寸前の慢性盲腸。当日は病院から点滴の針を刺したまま受験会場に向かいましたが、熱が40度近くまで上がって意識が朦朧としていたせいか、結果は散々。結局、現役時代に推薦で入れた大学に進むことになりました。

――大学では2年生の時にオーストラリアへ留学したそうですね。

留学しようと思ったのは漠然と「人生経験になるかな」という理由で、アルバイトで費用を貯めました。東大を目指すレベルの中学生の家庭教師をして時給2000円もらっていたんですが、生徒に派遣先の会社と契約を切って個人契約してくれるよう説得し、実入りが時給2000円から時給5000円に上がりました(笑)。

深夜は高速のサービスエリアでレジ打ちのバイトをして、接客の合間にずっと英語の勉強をしていたんですが、そんな生活を続けていたらまた体を壊してしまい…。結局、バイトはあきらめてスロットで稼ぎ、その一部を留学費用に充て、大学2年の途中からオーストラリアの大学に通いました。

――「地主の婿養子」へとつながる奥様との出会いが、その留学先だった。

彼女はその大学の日本人学生で、たまたまキャンパス内で見かけたときに「かわいいな」と思って…。初めて会話したのは、何人かのグループで遊びに行ったゴールドコースト。それから数カ月後に付き合い始めました。

留学から1年後、日本に帰ってきて就職活動をしました。ある業界トップの商社の一次面接で、これまでの自分の人生を延々と語ったら、2次から4次と社長面接をすっ飛ばしてその場で内定をもらったんです。他に財閥系など大手の選考もいくつか進んでいたんですが、早く彼女に会いたかったので、その商社の内定を承諾して就活を終え、すぐさまオーストラリアに戻りました。

インタビューに応じてくれた地主の婿養子大家さん。「腕組んでるポーズ使ってください!(笑)」

「養子になってくれないか」

――就職した商社の仕事はどうだったんですか?

建築関係の法人営業だったんですが、朝6時から現場に直行し、19時ぐらいに帰社して、深夜まで電話対応しながら事務作業をして、0時ぐらいにご飯を食べに行って、会社に戻ってまた仕事。夜中3時ごろに帰宅して、少し寝たらそのまま現場に直行…というような毎日でした。月の残業は240時間ぐらいだったかな。とにかく根性と交渉力だけは身につきました。

――退職を決めた理由は?

商社に3年勤めたころ、彼女と結婚することを決め、ご両親とも頻繁に会うようになりました。そして結婚式の1週間ぐらい前に突然、彼女のお父さんから「養子になってくれないか」と言われたんです。彼女は2人姉妹の妹で、お姉さんは先に嫁いでしまい、妹も嫁げば血筋が途絶えるという状況だった。もし僕がお義父さんの立場だったら…。急なことでしたが、その場で二つ返事で受け入れました。

実家の両親には電話で報告しました。「姓が変わっても、オレが○○家の次男であることは一生変わらない」と。親父は、僕が一度決めたら聞かない性格だと分かっているので何も言いませんでしたが、母親は号泣していましたね。

「で、どうすんの?」と詰められて

――その後、仕事はどうしたんですか?

結婚を機に商社を辞めて、大手不動産会社に転職しました。養子になるからには、お義父さんが築き上げたものを僕が守っていかなければならない。中途半端に商社で仕事をしながらやるような覚悟ではダメだと思って、まずは不動産会社に入って勉強しようと決めました。

――すぐに結果を出せたんですか?

実需の売買仲介だったんですが、歩合制で初年度の年収は350万。商社時代の半分に減りました。基本的に、所属店舗へ買いのお客さんが来店すればデキる営業マンが対応するし、売り相談の電話は上司に回すことになるので、下っ端には一切仕事が入ってこないわけです。自分で案件をもぎ取らないと数字が作れないんですが、最初は全然契約が取れず、2年目に左遷のような形で異動になりました。

異動先のセンター長には「お前は本気になっているつもりなだけ」「どうせ逃げ道があるからいいと思ってんだろ」と言われました。毎日「どうすんの?」「で、どうすんの?」と詰められているうちに、営業として常に「次の次」ぐらいを考えて動く感覚が身についてきて、少しずつ成長し、しばらくして毎月のように表彰されるぐらい結果が出せるようになりました。

忘れられない経験

――印象に残っているお客さんはいますか?

当時、エリア外の自社店舗が存在しない駅周辺で目玉のマンションがあって、とにかく契約を取るため定期的に売りを求めるチラシを配っていたんです。1500〜2000戸に1時間ぐらいでポスティングしていたので、よく拳から血が出たんですが…(笑)。ある日、そのマンションのお客さんから電話があって、一般媒介で入らせてもらいました。私の査定では5500万円ぐらいでしたが、売出価格は7000万円で、その時点で半年間売れていないという状況でした。

売主は75歳の男性で、すでに奥さんを亡くし、独立した子どもも戻ってこない。家族のために定年まで働き、家族のために買った100平米の部屋に、たった1人で暮らしていた。相場からすると、7000万円という売出価格はどう考えても高い。この金額は男性のプライドだったのかもしれないし、もしかしたら子どもが戻ってきてくれるという淡い期待があったのかもしれない。

――その物件はどうなったんですか?

男性には「僕を信じてくれるなら専任にしてほしい」と頼みました。住み替え先の物件を案内したら、その男性は「買いたい」と言った。僕は本気で売れる金額として、5980万円で売りに出し、そこからさらに指値が入って、最終的に5400万円で売却が決まりました。

決済の日。「もう少し高く売ってあげたかった」と伝えた私に、男性は首を横に振り、目を真っ赤にして「ありがとう」と言いました。

その瞬間…「この仕事はもう続けられない」と思った。仲介という仕事が、どれだけ人の人生にとって重要な役割を果たしているかを痛感したからです。目先の数字のため、自分のお金のために、自らをマインドコントロールして営業することはできない。人をだますためのノウハウを、ここでこれ以上学ぶ必要はない。そう思って退職を決意しました。