「青木ヶ原樹海の真ん中に村がある」

と聞いたら、皆さんはどのような村を想像するだろうか?

森の奥深くにあり、誰も場所を知らない村。ホラー映画に出てくるような辛気臭くておどろおどろしい場所を想像するかもしれない。

だが実際には、全然怖い雰囲気の場所ではない。

場所は、地図を見ると一目瞭然だ。

精進湖の南。国道139号線から青木ヶ原に食い込むように、長方形の土地があるのが見える。周りには森しかないので、地図上では非常に浮いて見える。

自動車に乗って向かうと、しっかりとアスファルトの道路が敷かれ、整然と建物が並んでいた。映画『樹海村』に出てくるような村を想像してきた人は、ちょっと整然としすぎていて、ガッカリするかもしれない。

ここは現在は「精進湖民宿村」と呼ばれている。名前の通り、民宿を経営している家が多く、「○○荘」と書かれた看板が目につく。

筆者は、青木ヶ原樹海に宿泊する際に民宿「丸慶」と「樹海荘」に泊まったことがある。どちらもとても居心地がよく、富士山がよく見え、ご飯もとても豪華で美味しかった。

民宿「樹海荘」

コロナ禍もあり、営業している民宿はだいぶ減ってしまったというが、それでも現在、約10軒の民宿が営業を続けている。

「なんだ、じゃあ全然普通の場所なんだ?」と思われるかもしれないが、やっぱりそんなことはない。そもそも、なぜ樹海の真ん中に不自然な四角い村があるのか、不思議に思う人もいるだろう。

この村ができた経緯には、過去のある事情が関係している。

この場所から少し離れた、富士五湖の西湖のほとりには「根場集落」という場所がある。

根場集落は1966年9月に起きた台風26号の影響で土石流が起きて、大きな被害を受けた。

一方、精進湖近くには居村という場所がある。この居村は根場集落と非常に似た環境で、精進湖の居村もいつ同じような大災害が起きてもおかしくないため、村ごと引っ越すことになったのだという。

もちろん引っ越さない人もいたし、現在も居村に住んでいらっしゃる人もいる。だが、その引っ越した先が、現在の精進湖民宿村なのだ。

そんな風にレアなケースで、突然できた村。当時はもちろん森であり、樹海を切り開いて住宅を建てた。人命に関わることなので、ハイピッチで工事は進められたという。だから、通常ならありえない青木ヶ原樹海の真ん中に、四角く切り抜く形の村が生まれたのだ。

村ができた当初は、民宿村ではなかったが、数年経ち、1970年代に日本各地で民宿ブームが起こり、それに乗じる形で民宿がオープンしていった。当時の民宿は、現在の民泊のような、お手軽な宿だったという。

人口も増えて、民宿村の隣に精進小学校が建てられた。子供の数は全体で40人くらい。現在は閉校して公園になっている。

廃校となった小学校は現在は公園に。閉校記念碑が建てられている

これがなかなかいい雰囲気の公園だ。廃校と言っても整備されているので状態は良い。校舎の前には「精進小学校閉校記念碑」が建てられていて、碑には校歌が刻まれている。

少し離れた場所に、二宮金次郎像が建てられていた。最近では「読書しながら歩くのはよくない」ということから座って本を読んでいるらしい二宮金次郎像だが、そもそも見る機会自体が減ったから、とても懐かしい気がする。

二宮金次郎像が残っていた

観光スポットに残る「上九一色村」の文字

ところで、「なんのために樹海に泊まるの?」と思うかもしれない。

だがもちろん、青木ヶ原樹海を観光しにくる人はいる。

自殺スポットというイメージから「うらびれて誰もいない森」みたいな想像をする人もいるが、実際には観光スポットだ。富岳風穴や蝙蝠穴など観光地もあるし、自然ウォッチングに来る人も多い。

そもそも、富士五湖の周りは全体が観光地だ。富士山に登る人や、高原で遊ぶための人も来る。富士サファリパークや富士急ハイランドなどのレジャー施設も多い。少し減ってはいるが、釣りやバイクのツーリングが目的のお客さんもいた。

前に訪れたときには、日本全国をバイクで旅しているオジサンがいた。

「北海道で走りたいと思って、バイクを空輸で北海道に運んだんだけど大変だったよ!」など全国のツーリング話をたっぷり聞かせてくれた。

精進湖民宿村周辺は、富士周りの観光をしたい人にはぜひ一度、遊びに行ってもらいたい場所だ。

もし、別荘を持ちたい人にも向いている場所だと思う。東京の都心部からは自動車で2時間30分前後、河口湖駅や富士吉田までは自動車で30分と、比較的便が良い。

インターネット上では見つからなかったが、もしかしたら閉じてしまった民宿を借りたり、買ったりすることも可能なのかもしれない。収益がどうなのか、十分検討する必要はあるが。

そんな精進湖民宿村を歩いていると、ハッとすることがある。消火用の設備に「上九一色村」「上九一色村役場」と書かれているのだ。そう、オウム真理教の事件で注目された上九一色村だ。

精進湖民宿村の現在の住所は、山梨県南都留郡富士河口湖町精進5丁目。だが、かつては上九一色村だったのだ。

オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした後は、「上九一色村」という村名を毎日テレビから耳にした。

まるで「かみくいしき」という言葉が不吉な意味を持つような気さえした。村民は、完全なる被害者であるにもかかわらずだ。

宿泊させてもらった民宿「丸慶」の若旦那、マサヲさんに話を聞いた。

マサヲさんは公務員として勤務をした後、5年間の修行を経て、35歳の時に民宿丸慶を継いだという。

民宿「丸慶」

ネットを通しての集客など、業績を伸ばしている。コロナ禍の中では営業を自粛することになったが、その間には樹海をテーマにした動画をYouTubeで配信し、人気も集めた。現在は自粛期間が過ぎて再び、賑わいが戻ってきている。

そんなマサヲさん、オウム真理教の事件があった当時は、まだ中学生だったという。

「オウム真理教が事件を起こしてから、急に上九一色村が注目されてしまいました。うち(民宿丸慶)にはオウム真理教の事件の間、ずっとテレビ局の報道陣が宿泊していました。麻原彰晃が逮捕されるXデイには、万が一に備えて学校は休みになりました」と振り返る。

設備に残る「上九一色村」の文字

「(宿は)ずっと満室だったので、収入的には良かったのですが、大人たちも、そして僕も嬉しい気持ちにはなれませんでした。オウム真理教に、観光地としての上九一色村、ふるさとの上九一色村が汚されてしまったという、とても悔しい気持ちになりました。上九一色村という名前に『嫌だ』『恥ずかしい』という気持ちを持つようになり、それも辛かったですね」

2006年、上九一色村は分割されて、甲府市、富士河口湖町に編入され、ひっそりと姿を消した。だから上九一色村という名前は、消防施設などほんの少ししか残っていない。

「正直、上九一色村がなくなってホッとしました」とマサヲさんは胸の内を明かす。

筆者が以前、『樹海考』という青木ヶ原樹海をテーマにした単行本を作った時に、上九一色村の地図を載せようとした。だが、これがなかなか難しかった。

上九一色村が分断されてしまい、どこに上九一色村があったのかはすぐには分からないのだ。結局、図書館に行って、古い地図を参照して地図を書いた。

「1つの村が、こんなにも痕跡を残さずに消えるんだ」と少し恐ろしく、そして寂しく感じた。

(村田らむ)