「福島第一原発の原子炉の中に入るツアーがあるんですけど、村田さん行きませんか?」と知り合いに聞かれ、一も二もなく「行きます!」と答えた。原発の中に入れるチャンスなど、滅多にない。それはもう絶対に入りたい。
数週間後、ツアーに参加する5人で福島へ出かけることになった。
「人だけがいなくなった街」
福島は2016年に取材で足を運んだ以来。この時の取材は「立ち入り禁止区域」内への取材が中心だった。原発事故で撒かれた放射性物質の除去が終わっていない地域だ。住むことができないため、事故から5年経っても避難先から戻って来れなくなっていた。
僕は潜入取材を辞さないタイプのライターだが、この時はしっかりと許可を取った。福島県富岡町の役所に行き、役所の人間に先導されて立ち入り禁止地域に入った。
この地域は、地震や津波による被害はほとんどない場所だった。そのため家々は普通に建っていた。

家はそのままの状態で残っていた(2016年撮影)
自動車は置かれていたが、どの車もタイヤはぺちゃんこになっていた。植木は巨大に育ち、JR常磐線の「夜ノ森駅」も草木に覆われていた。イノシシなどの動物が庭や家の中を荒らすので、罠が仕掛けられている家もあった。まるで、藤子・F・不二雄さんの短編のような「人だけがいなくなった街」の光景だった。

当時のJR常磐線・夜ノ森駅舎(2016年撮影)
駅で、地面の放射線量を測ったら、8.61マイクロシーベルトと高い結果が出た。ただその時には、どんどん除染作業は進んでいて、立ち入り禁止ではなくなると話があった。実際、町の大部分で、2017年には避難指示が解除された。
同じ年には、震災以来7年ぶりに桜まつりも開かれるという話だったし、常磐線も運行再開すると聞いていたので、「再訪しよう」と思っていた。そう思いつつ、結局訪れることができずに、それからさらに7年が経ってしまった。
そんな今年、ようやくの再訪だ。
いま、一番の課題は「水」
福島第一原子力発電所近くのショッピングモールが待ち合わせ場所だった。すでに到着していた、経済産業省の現地事務所の担当者であるKさんと落ち合う。
ショッピングモールの駐車場で、Kさんの自動車に乗り換えた。そのまま福島第一原発の敷地内へ移動する。
カメラや録音機は持ち込めないが、その代わりにニコンのコンパクトデジカメを渡してくれた。自由に撮影して良いが、後で、「写してはいけないもの」が写っていないかどうか確認してから、使用可能な写真を渡してくれるそうだ。写していけないものというのは、ドアや監視カメラなど。理由はテロ防止のためだ。
「駐車場に赤いシールの貼ってある車がありますよね?」とKさんに言われた。確かにある。どの車も年季が入っているように見えた。
「地震の時に、原発の敷地内にあった自動車なんです。汚染されたので外に出すわけにいかない。それで社用車として使っていました」
福島第一原子力発電所からは、「人間」以外は外に持ち出すことができない。だからガソリンスタンドも整備工場も敷地内へ作ったという。車も古くなってきた今、スクラップ工場を作る必要が出てきている。
外に持ち出せないのは、自動車やゴミだけではない。一番の問題は水だ。
ズラリと処理水のタンクが並んでいる。なんと一基1億円で、1080個も建てられているという。敷地がもう一杯なので、ALPS(多核種除去設備)でトリチウム以外の放射性物質を取り除き、安全基準を満たした水を海に廃棄して、タンクを減らしていく予定だという。

処理水のタンクが並ぶ
説明を受けたら確かに安全だと思える。だが、これに関してもやっぱり揉めている。地元の人がそう簡単に納得できないのも、理解はできる。
いまだ「片付かない」、事故の爪痕
原発の中に入る手続きは、想像の3倍くらい大変だった。
まず身分証を出し、静脈認証をして鍵を作る。入る時と、出る時で、身体から発する放射線量が変わっていないかどうか調べるため、ホールボディ・カウンターによる内部被ばく検査を受ける。
内部に入るためには、手袋を3枚はめ、靴下を3枚はき、白い上着を着て、上着の胸に放射線測定器を入れる。マスクをし、帽子をかぶり、ヘルメットをかぶり、防護服を着て、指定された作業靴を履く。
場所によってヘルメットや防護服は着用しなくてよいなどルールが変わるが、とにかくまあめんどくさい。原発内で働いている人は年中、作業をこなさないといけないわけで、大変だ。

ヘルメットや手袋などを装備し、原発内を歩く
そして、一度着た防護服や手袋などは全部放射性廃棄物として敷地内で処理をしなければならない。ゴミはますます溜まっていく。
準備を済ませて最初に向かったのが、1~4号機の正面の丘だ。丘の上に立つと、1~4号機を見下ろすことができる。
テレビなどで何度も見た、水素爆発で吹っ飛んだ1号機が目の前にあった。
怖いだとかなんだとか思う前に、有名人と出会ったような気持ちになって1人興奮してしまった。
事故から12年経っているが、1号機は、建屋を覆っていた鉄骨が、赤く錆びついて丸見えになっている。事故が起きた時と、あまり変わっていないように見えた。

事故が起きた1号機
よく見ると1号機の壁面で、防護服を着て働いている人がいた。現在もかなり強い放射線が出ていて、防護服を着ていても長くは働けないそうだ。
1~4号機は壊れ方が違うので、外観もかなり違っている。
1号機は、建屋全体を覆う大型カバーを設置する予定。2号機は建屋が吹き飛んでおらず、南側に燃料取り出し用の部屋を建設している。3号機は燃料取り出し用のかまぼこ型のカバーがつけられている。4号機は鉄骨が白とグレーの壁で覆っている。
この丘からの光景だけで、福島第一原子力発電所の事故の大きさがわかる。そして、事故は全然片付いていないこともわかる。
放射線測定器の音に不安も
1~4号機はどれも大きな事故があったため、当然中には入れない。だが5、6号機は少し離れた場所にあり、大きな被害はなかった。今回は5号機の中に入らせてもらえることになっていた。
中に入ると、まるでSF映画のセットのような雰囲気だった。長い廊下の先には、5と書かれている。ところどころ手書きのメモが貼ってあったりするのが、とてもリアルだった。

施設内の廊下
窓の中を見ると、研究施設らしく壁がピカピカと光っていた。壁に貼られたポスターは平成レトロの雰囲気だ。「PHSの落下に気をつけよう」などと書かれている。
まずは、原子炉の真上に向かった。広々とした空間が広がっている。真っ先に緑色のプールが目につく。

使用済み燃料を冷却するプール
「深さ12メートルのプールです。今はろ過されていなくて濁っています。透き通っている時は、沈められている燃料1542体が見えます」
え? ここに燃料が沈んでいるの? ヤバくない?
「水で放射線は遮断されているから大丈夫です。ちなみに、作業中にプールに落下してしまった人がいますけど、まったく大丈夫でした」
それは良かった……というか、このプールに落ちるなんてどんなウッカリさんだ! 無事助かっても、絶対にトラウマが残る…。
原子炉の真上に立ったが、炉心の上部は工場のような雰囲気だった。
その後、ヘルメットを被り、防護服を着て、原発の炉心の真下へ降りた。

防護服に身を包み、施設内の見学を続ける
地下は人が入ることが想定されていない、機械の中に無理矢理道を通したような場所だ。上がりすぎた圧力を下げる役割がある「サプレッションチャンバー」という、直径33メートルのドーナツ型の構造体の上を歩く。すると、炉心の真下にたどりついた。
天井は低く、制御棒を操作する装置と、錆びついたボトルが何本も飛び出ている。もう電源は通っていない装置もたくさん置かれている。ふいに胸に入っている放射線測定器が「キュイ!」と大きな音を立てた。Kさんは笑いながら、「胸のレントゲンの半分くらいの線量だから大丈夫です」と言う。大丈夫なんだろうけど、微妙に不安になった。
2050年になっても廃炉は終わらない
1~3号機は核燃料が溶け落ちるメルトダウンが起きた。つまり、今僕たちがいるこの場所には、燃料と金属が溶けた塊が落ちているということだ。デブリ(ゴミ)の総量は880トン。
「今ロボットアームで取り出す計画がありますが、一回で取り出せる量は数グラムです」
「数グラム?」
思わず聞き返してしまった。
一回数グラムだとしても、何回も繰り返せば880トン取り出せる……というわけでもない。大きな塊になっているから、細かく切らなければそもそも取り出せない。
人間が絶対に入れない場所で、金属をバラバラにして取り出す。
つまり、端的に言えば、どうやって出したらいいのか分からないのだ。
2011年12月に出された『廃炉措置に向けた中長期ロードマップ』では、3~40年後には廃炉が終わるとあった。
「2050年頃には廃炉は完了するんでしょうか?」
「しませんね」
即答での否定だった。
実際、話を聞いていても、絶対無理だと思った。正直、一世代や二世代で終わるようなプロジェクトではないと感じた。
とてもお金がかかるが、反面全く収入にはならないプロジェクトだ。それでも長年かかってもやり遂げなければならない。
原子力発電所というダイナミックな施設に興奮しつつも、やはりやりきれない気持ちになってしまった。
新駅舎完成、常磐線復活も…街はいま
せっかく福島に来たので、7年ぶりに富岡町の夜ノ森駅に足を運んだ。
前回来た時は、立入禁止区域に指定されていたから、町並みは健在だったが人が全くいなかった。ゴーストタウンになっていた。
現在は、町の大部分で立入禁止が解除された。昔からの夜ノ森駅は閉鎖されており、その後解体された。新駅舎は、2020年にできたという。以前の夜ノ森駅に似た建物も建てられており、待合室として使われているそうだ。駅周辺の避難指示も同年解除され、常磐線も全面復活している。
現場に行くと、想像とは違う光景が広がっていた。多くの家や建物が取り壊されていた。建物がなくなったぶん、遠くの方まで見渡せる。
アスファルトは再舗装されていたが、歩道には雑草が。潰れたコンビニの前には大きな樹が生い茂っている。

廃業したコンビニは木々で覆われていた

くさむらに置かれた車
草むらの中にはボロボロに錆びた自動車とバイクが眠っていた。
残された駅前のゲームセンターの名前が「理想郷」だったのが切ない。
7年前に来た時と変わらず……いや、ある意味で、それ以上の廃墟感を感じてしまった。
原発事故というものは、街を、土地を殺す災害だというのを、まざまざと見せつけられた気がした。

ゲームセンター「理想郷」
(村田らむ)
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