PHOTO : たっきー / PIXTA

神奈川県横浜市の人口が減少している。横浜市は、約376万9000人の人口を擁する日本最大の基礎自治体だ。この人口は、都道府県で例えるなら10位の静岡県を上回る。つまり、横浜市単独でも十分に県と肩を並べられる市ということになる。

そんな最多の人口を誇る横浜市だが、直近2年間は人口減少に転じている。2022年度は前年度比マイナス2434人となり、傾向が鮮明になっている。すでに全国各地では人口減少が著しい自治体もあり、2020年代には日本全体が人口減少トレンドに入った。そのため、横浜市の人口減少は深刻に受け止められていない。

とはいえ、人口が2年連続で減少したというニュースは気になるところだろう。18行政区の中でも減少幅がもっとも大きいのは金沢区で、次いで旭区。

筆者は20年以上前から、鉄道沿線・バス路線を中心に横浜市をくまなく歩いて取材してきた。が、特にここ数年は鉄道路線の大きな変化もあったことから頻繁に横浜市の鉄道路線を取材している。そのため横浜市の「鉄道開拓史」に着目することで、金沢・旭2区の「人口減少の正体」がおぼろげながらに見えてくることに気づいた。

横浜の宅地開発を進めた「私鉄」の戦略

人口減少の正体を探る前に、横浜市がどのような軌跡をたどって日本最大の人口を誇る巨大都市へ成長したのかを少し長くなるがおさらいしておきたい。

戦前期から横浜市は日本でも指折りの人口を擁する都市だったが、人口が劇的に増加するのは高度経済成長期以降からだ。1970年の横浜市は人口が約220万人。決して人口が少ない都市だったわけではない。

当時の横浜市は広報誌に「わたくしたちの横浜 伸びゆく220万都市」というキャッチフレーズを掲げ、「子どもを大切にする市政」と「だれでも住みたくなる都市」を市政の二本柱にしていた。

その後も横浜市の人口は増え続け、1978年には大阪市を抜いて市としては日本一に 。そして、1985年には300万人を突破する。その後に人口増加は鈍化するものの、2002年には350万人を突破している。

横浜市の人口と世帯数の推移 横浜市ホームページより引用

人口増加の牽引役を務めたのは、東京急行電鉄(現・東急)や相模鉄道(相鉄)・京浜急行電鉄(京急)といった私鉄だった。私鉄3社は沿線開発の一環で自社沿線に住宅地を開発・分譲したが、3社の住宅地開発により沿線人口は爆発的に増加していった。

なぜ、東急・相鉄・京急は住宅地開発に乗り出したのか? 鉄道会社は自社の利用者を増やすべく、明治期から沿線開発に力を入れてきた。これは阪急電鉄の総帥・小林一三が編み出したビジネスモデルで、それを他社も模倣した。

相鉄が発展させた旭区「希望ヶ丘住宅地」

そうした私鉄の中でも、特に相鉄は終戦直後から沿線開発に力を入れるようになる。その背景には横浜特有の事情がある。

終戦後、横浜市中心部の大部分は、進駐軍に接収された。そのため、横浜市の中心部は住宅を建設できなかった。こうして横浜市は住宅難に直面する。

横浜市18区。本記事で触れる旭区・金沢区の位置はピンで示す通り。市庁舎は中区に、横浜駅やみなとみらい駅は西区にある。市の北側は川崎市と、西側は東京都町田市や大和市と、南側は湘南エリアと接し、東側は東京湾に面する(PHOTO :suzumeclub / PIXTA)

横浜市復興建設会議設立当時の接収地(赤い箇所) 。横浜市の行政・経済の中心として発展した中区や、西区周辺も接収対象となった(横浜市ホームページより引用)

そこで白羽の矢が立ったのが、相鉄沿線だった。相鉄の沿線は開発がなされておらず、ゆえに住宅地を建設するには適していた。また、相鉄は1947年まで運転士不足や経営合理化を目的に鉄道運行を東急に委託していた。戦後の混乱が収まりつつあった1948年から、自社運行へと切り替える。

事業拡大を目指していた相鉄は沿線開発にも乗り気だった。行政と相鉄の思惑が一致し、相鉄は三ツ境駅―二俣川駅間で住宅地開発に乗り出した。

相鉄は両駅間に希望ヶ丘駅(当時は保土ケ谷区。現・旭区)を新設し、希望ヶ丘住宅地の分譲を開始。それを皮切りに沿線の宅地化は加速していく。沿線の宅地化が進んだことで通勤・通学需要が生まれ、相鉄の利用者も右肩上がりで増えていった。

開業当初の希望ケ丘駅の様子(1948年山田公雄氏撮影、相鉄グループ100年史 ダイジェスト版より引用)

利用者が増加すると、輸送力が不足する。相鉄は輸送力を強化するべく、複線化に着手。1951年に西横浜駅―上星川駅間、翌1952年に上星川駅―希望ヶ丘駅間が複線化し、1954年にはラッシュ時に対応するため横浜駅―希望ヶ丘駅間で折り返し運転を開始した。

折り返し運転は希望ヶ丘駅から先の複線化工事が間に合わなかったための暫定措置でもあるが、折り返し運転によって横浜駅―希望ヶ丘駅間の運転本数が増えることになる。当然ながら、運転本数が増えたことでラッシュ時にも多くの利用者を輸送することが可能になった。

こうした相鉄の沿線開発が実を結び、1950年代には希望ヶ丘駅周辺が一気に宅地化した。それが横浜市の人口増を象徴する存在になっていった。

現在の相鉄希望ヶ丘駅前。駅前は少し古びた雰囲気だが、相鉄が再開発を計画している(筆者撮影)

高度経済成長期、「相鉄沿線」の人気高まる

そして、時代は高度経済成長期に突入する。同時期、庶民はマイホームを持つことが夢ではなくなり、持ち家を買う人が増えていく。社会的なムードもそれを後押しした。しかし、戦後復興で人口を急増させた東京は不動産価格が高騰し、東京都心部でマイホームを構えることは高嶺の花になっていた。

そうしたマイホームの夢を抱く庶民に対して、私鉄は郊外を住宅地に開発して手頃な価格で提供する。東京圏での先駆けは東急で、多摩田園都市と呼ばれる住宅地を開発。それよりも、さらに手頃な価格帯だった相鉄沿線も注目されるようになる。これが、相鉄の宅地開発を加速させていく。

高度経済成長期が一服する1970年代に入ると、相鉄は二俣川駅から分岐するいずみ野線を計画。その沿線を宅地化することを目指した。こうして、1976年に二俣川駅―いずみ野駅間が開業した。

相鉄は沿線の宅地化を進めるべく、1952年に相鉄不動産という子会社を設立している。相鉄不動産が沿線で配布したチラシやパンフレットを見ると、相鉄は希望ヶ丘駅をはじめ沿線全体で戸建販売に力を入れていたことが窺える。

希望ヶ丘住宅地などの分譲に関するポスターとパンフレット(相鉄グループ100年史 ダイジェスト版より引用)

こうした歴史から見えてくるのは、旭区は早くから相鉄が住宅地開発を進めたので、少子高齢化・人口減少が顕著になるのも早かったということが言える。

60年代から「ニュータウン」構想の金沢区

旭区よりも人口減少が顕著な金沢区のケースはどうだろうか? 金沢区は、京急が区域を南北に貫く。京急の宅地開発は相鉄よりも遅れて始まった。そして、1963年に横浜市長に飛鳥田一雄が就任したころから金沢区が注目エリアへと変貌していく。

飛鳥田は横浜を東京と比肩する都市へと発展させるために六大事業を掲げた。六大事業のひとつでもある金沢地先埋立事業は1968年から着手され、そこにはニュータウンが生まれていった。

金沢地先埋立事業は、桜木町駅周辺で操業していた工場を移転させる目的を含んでいた。工場を移転させることで市中心部の住環境改善を図ろうとしたが、移転先の金沢地先埋立地にもニュータウンの造成が予定されていた。そうしたことから、金沢ニュータウンは環境にも配慮がなされ、街のいたるところに緑地スペースを大きく設けている。

金沢区沿岸の埋め立て前後の様子(横浜市ホームページより引用)

金沢地先埋立事業によってニュータウンが生まれたが、もうひとつの課題として居住者の足を確保する必要があった。金沢地先埋立事業を開始するにあたり、公共交通の整備を計画に盛り込んでおかなかった点には疑問が残るものの、1989年に金沢シーサイドラインが開業する。

金沢シーサイドラインは北端の新杉田駅でJR線と接続できたものの、南端の金沢八景駅は駅の敷地を確保できなかった。そのため、金沢シーサイドラインの金沢八景駅と京急線の金沢八景駅は約200メートル離れた仮駅として開業することになる。

その状態は2019年まで続く。わずか200メートルの距離だが、その200メートルが利用者から乗り換えが不便という印象を残してしまった。これが、金沢シーサイドラインの沿線開発にも影響を及ぼしている。

宅地開発牽引するも、進む「都心回帰」

相鉄と京急どちらにも共通しているのは、住宅金融公庫から融資を受けられる建売住宅に力を入れていたことだった。右肩上がりの経済と人口増を続けていた時代は、持ち家信仰という追い風もあり戸建住宅は根強い人気を誇った。

しかし、バブル崩壊後に日本経済は停滞し、2005年前後から都心回帰の傾向が強まる。こうした社会情勢下で、郊外のニュータウン、特に戸建住宅は人気を失っていく。そして、郊外の戸建住宅は通勤に不向きというデメリットだけが目立つようになる。

旭区も金沢区も、決して都心部に近いとは言えない。旭区の場合、相鉄を利用すれば横浜駅までは一本で移動できる。しかし、東京方面へ移動は横浜駅もしくは海老名駅での乗り換えが必ず生じていた。それが忌避される要因になっていた。金沢区は京急沿線も横浜市中心部から遠く、金沢シーサイドラインに至っては横浜駅や桜木町駅へと出るのにも一苦労だ。

人口減少の兆しが見え始めた2000年頃から、 横浜市でも都心部に居住者が移る都心回帰の兆候が出てきていた。それが戦災復興期や高度経済成長期に人口を増やした旭区・金沢区などの郊外住宅地を苦しめている。