新宿中央公園の入り口。左手の奥には、Park-PFIによって誕生したカフェとレストランの建物が見える(筆者撮影)

私たちが暮らす都市空間には、多くの公共施設が存在する。数多い公共施設の中でも、もっとも私たちに身近で、当たり前のように利用しているのが都市公園だ。

都市公園という言葉は一般的に使用される機会は少なく、東京23区なら都立○○公園、○○区立公園といった名称で表現されることが多い。

物件探しの際にも、公園が多い街や近くにあることはセールスポイントとなるだろう。他方、公園とはどんな存在なのか? を深く知る機会は少ない。

今、実は公園を取り巻く環境は大きく変動している。

というのも、2017年に公園を活性化させるという名目で都市公園法が改正。

これにより各地の都市公園にPark-PFI(公募設置者管理制度)が導入できるようになり、公園内に全国チェーンのカフェやレストランの出店が加速しているからだ。

Park-PFIでは、これら出店したカフェやレストランは利益の一部を公園の整備に充てることが定められている。こうした事情もあり、自治体関係者・公園管理者・民間事業者などから公園の整備が進むと大歓迎されている。

しかし、どんな事柄にも表と裏がある。自治体関係者・公園管理者・民間事業者から大歓迎されたPark-PFIは、必ずしも近隣住民や公園利用者にプラスの作用ばかりをもたらすわけではない。

明治から令和まで、公園が歩んだ150年間の歴史をたどるとともに、近代公園制度の大革命ともいえるPark-PFIの実像に迫った。

多様化する「公園」の役割

公園は数ある公共施設の中でも、住民にもっとも身近な存在となっている。反面、誰もが、いつでも、自由に利用できることが建前になっているので、行政・住民・利用者間で考え方によるすれ違いが起きやすい。

それゆえに公園のあり方や使い方は、たびたびハレーションを生んできた。

例えば、公園に求める機能や役割について、若年のファミリー層なら子供の遊び場、地域のコミュニティ空間と考えているかもしれない。

一方、高齢者は休憩スポット、健康増進の場と考える。また、緑化や自然保護といった役割もあるし、街のにぎわいを創出するための空間と考えられているフシもある。

さらに公園は防災機能を有しているが、それは防災倉庫といった備蓄目的であったり、避難用地だったり、はたまた火災の延焼を防ぐための緩衝地帯だったりもする。

そのほか、地下に貯水機能や非常電源を備えている公園なども増えている。

防災倉庫のある公園(PHOTO : Catsu / PIXTA)

時代とともに、公園は求められる機能が増えていった。

それは公園が生活に欠かせない都市インフラになっている証左でもあるが、そうした求められる役割が増えすぎた状況が行政にとって公園を「厄介」な存在にしている。

そもそも公園は、どうやって誕生し、どう成長してきたのか? その成長過程をたどると、今、公園が直面している問題も浮かび上がってくる。まず、簡潔ながら公園の発達過程をおさらいしておきたい。

そもそも「公園」はいつできたのか

近代における公園制度は、1873年の太政官布達(だじょうかんふたつ:太政官によって交付された法令形式)によって始まる。つまり、今年2023年は公園制度創設150年の節目にあたる。

150年という長い歳月により、公園は厄介な都市インフラへと姿を変えた。まず、その軌跡をおさらいしていこう。

太政官布達によって東京に生まれた公園は浅草公園・上野公園・芝公園・深川公園・飛鳥山公園の5つで、これらのうち飛鳥山公園を除いた4つは社寺の境内地を公園に転換したに過ぎない。

江戸時代から境内地は人が集まる場として機能していたが、それが行政から公的に認められることにより、日常生活の中に不特定多数の人々が「集まる」という行為が組み込まれていく。

集まることが何の変哲もない行為になった現代社会においては意識しづらいが、人と人が集まることは話し合いをしたり決め事を伝達したりと、当時の社会情勢では非常に重要な行為だった。

公園が誕生したことにより、多くの人々が一堂に「集まる」環境が整えられたのだ。

江戸幕府の徳川政権時代は公共空間という概念が希薄だった一方、西洋の思想を取り込む明治新政府は、発足当初から公園を開設。

上野恩賜公園(PHOTO : momo / PIXTA)

先述したように、公園は人々が集まる場でもあり、住環境の向上を目指す目的があった。こうして公園制度がスタートするわけだが、当時の人たちはピンとこなかったかもしれない。

それでも、曲がりなりにも公園制度が発足したこともあり、その後の政府は公園を増やす政策に取り組むことになる。公園が増加するにしたがって、公園に求められる役割も多様化していった。

そして、それは太平洋戦争時に政府が食糧増産を目的として一時的に農地へと転換したり、その後にGHQが農地改革を手がけて減少することはあったが、そうした例外を除けば公園は時代とともに増え続けた。

戦災復興が一服する1956年、「都市公園法」が制定されて公園整備水準や配置基準、管理基準などが定められた。これは戦後の日本において公園の整備が急務になっていたからだ。

そのため、行政は量的・質的の両面から公園の整備・拡大を目指した。こうして、現在までに約11万にもおよぶ都市公園が誕生する。

芝公園(PHOTO : まちゃー / PIXTA)

この約11万の公園の中には、土地区画整理事業の公共減歩や開発行為によって誕生した小規模公園も含まれている。

これは、土地区画整理法により「土地区画整理事業や開発行為では区域の3%を公園にすること」が定められていることに起因する。

こうして公園は増え続けてきたが、他方で土地区画整理事業や開発行為に伴う狭小な公園が膨大に増えるという結果を生んだ。

狭小な公園は管理が非効率的になるし、なにより公園が増えれば当然ながら管理費用も人員も増やさなければならない。

それでも公園が増えることは行政にとってプラスと受け止められてきた。高度経済成長期やバブル期、地価は高騰し、行政は公園用地を確保できるほどの財源を持ち合わせていなかった。

だから、狭小でも公園用地を手に入れられることは大きなメリットだった。

近年「変化」する公園、資金難も背景に

行政の公園に対するスタンスが変わり始めるのは、2000年前後からだ。地方自治体は行財政改革を迫られ、無駄な公共投資は削減されるようになる。

その矛先は公園にも向けられ、「指定管理者制度」の導入などによって公園の経費削減が進む。

指定管理者制度とは、2003年に地方自治法が改正されたことによって生まれた制度で、それまで自治体による行政サービスの委託先は公社や財団などに限定されてきた。

それが指定管理者制度により、民間事業者にも開放される。こうして、自治体は公共施設を所有したまま民間事業者に管理を委託できるようになった。

そして、多くの公園でも指定管理者制度が導入された。その結果、公園の管理に割いていた人件費を圧縮。また、民間事業者に管理が委ねられたことにより、一部の公園にカフェやレストランなども出店した。

その後さらに、2017年の都市公園法改正によってPark-PFI(公募設置者管理制度)の導入が可能になった。

公園の管理を民間事業者にも委託できる指定管理者制度と、Park-PFIは外見的・内容が似ている。

そのためよく混同されるのだが、「公の施設」の管理を民間委託する指定管理者制度と、公園内で「民間事業者による施設の設置」を許可するPark-PFIはまったく別の制度で、目的も異なる。

Park-PFIは、「公園管理者の負担軽減と、民間の優良な投資を呼び込むこと」を目的にスタートした。

民間事業者は制度を利用して公園に店舗を出店し、収益を得ることができる。その代わりに、利益の一部を公園の整備に充てる決まりだ。