このほど横浜市が瀬谷区の旧上瀬谷通信施設地区にテーマパークを整備すると発表した。横浜市の発表によると、整備事業者は三菱地所で、名称は仮称ながら「KAMISEYA PARK」となる。開業予定は2031年頃とされる。
KAMISEYA PARKは約70万6500平方メートルの敷地のうち、約51万4000平方メートルをテーマパークゾーン、約7万平方メートルを駅前ゾーン、約6万6500平方メートルを公園隣接ゾーン、約5万7000平方メートルを環4西ゾーンという内訳になっている。
KAMISEYA PARKは広大なため、同地に予定されているテーマパークの説明には、必ずと言っていいほど「東京ディズニーランド級」という形容詞がつく。これは、単なる比喩にとどまらない。
なぜならこれまでにも、横浜市は大型集客施設を造成・建設することで地域開発に弾みをつけようとした過去がある。それらの多くは大失敗に終わり、苦い経験になった。
そして、三菱地所もまたテーマパークに関連した苦い経験を持つ。苦い経験を持つ両者がタッグを組み、「ディズニー」に勝負を挑む。KAMISEYA PARKには、そんな思惑も見え隠れする。
今回のKAMISEYA PARKは、果たして成功するのか? それとも、再びの悪夢となってしまうのか―。
横浜市瀬谷区に「大規模テーマパーク」誕生へ
横浜市瀬谷区は、1969年に戸塚区から分離する形で誕生した。その瀬谷区には、戦後から長らく米軍に接収されていた広大な土地があった。
同地の面積は約242万2000平方メートルにもおよび、現在の瀬谷区の約15%を占める。こうした事情もあり、長らく瀬谷区は開発が進んでいなかった。
米軍が所有・管理する上瀬谷通信施設が日本に返還されたのは2015年。当初、同地の開発は相模鉄道(相鉄)を擁する相鉄ホールディングスが担当することになっていた。
上瀬谷通信施設跡地は、相鉄の瀬谷駅が最寄駅。そうした立地を踏まえれば、相鉄グループが開発事業者に名乗りをあげることは自然な成り行きだった。横浜市にとっても、地元の相鉄グループに任せたいという気持ちが強かったことは間違いない。
相鉄は横浜市の玄関でもある横浜駅を拠点にした大手私鉄で、本線・いずみ野線・新横浜線の3路線で旅客営業をしている。
1990年、相鉄は業界団体の日本鉄道民営協会によって、小田急や京急と肩を並べる「大手私鉄」と認定された。
しかし、相鉄は神奈川県内にしか路線網を有しておらず、当時は他社とも相互乗り入れをしていなかった。そのため、大手私鉄ながらも東京での知名度は低かった。
2019年11月、西谷駅から分岐する相鉄・JR直通線が開業。これにより、相鉄の電車が東京都内を走ることになり、東京での知名度は大幅にアップした。
さらに、今年3月には羽沢横浜国大駅から新横浜駅へとつながる相鉄・東急直通線も開業した。
相鉄・JR直通線と相鉄・東急直通線の2つが開業したことにより、相鉄沿線から東京へのアクセスが飛躍的に向上。これに伴い、相鉄沿線は注目を浴びるようになる。
近年の相鉄は、こうしたプラス材料が目白押しだった。上瀬谷通信施設跡地の開発計画も相鉄のプラス材料のひとつと見られていた。
しかし、相鉄・東急直通線の開業前となる2021年に、相鉄は上瀬谷通信施設跡地の開発計画を断念、プロジェクトから撤退した。
相鉄がテーマパーク計画から撤退した理由は明らかにされていないが、表面上の理由はコロナ禍による鉄道事業の苦戦が挙げられている。
だが、これが真の理由とは考えづらい。なぜなら上瀬谷の計画から撤退を表明した後も、相鉄グループは各地で開発事業を進めているからだ。
それが相鉄沿線の話なら、鉄道とのシナジー効果も生まれるから理解もできる。しかし、今年9月には東京都渋谷区の代々木上原駅近くにあるビルを取得。首都圏にターゲットを拡大すると発表している。
ターゲットを首都圏に拡大することの是非はともかくとして、上瀬谷から相鉄が撤退することにより、横浜市は新たなパートナーを探さなければならなくなった。
約3年の歳月をかけて、横浜市は新しいパートナー事業者に三菱地所を選定。上瀬谷通信施設跡地のうち、約51万平方メートルがテーマパークとして開発される予定だ。
新たに整備されるテーマパークは「世界に誇るジャパンコンテンツとジャパンテクノロジー」を活用し、世代を問わず多くの人々が世界観に没入できる空間をつくり出すとしている。
最先端のエンターテインメント空間は、新たな観光拠点として期待されている。
新テーマパークは「ディズニーランド級」?
同地に建設されるテーマパークの説明文には、先述したように「東京ディズニーランド級」「東京ディズニーリゾートに匹敵」といった惹句が盛んに用いられてきた。
この惹句は敷地面積の規模を比較する際に用いられてきたが、新たにオープンするテーマパークに対してわざわざ日本で不動の人気を誇るディズニーを持ち出す必要性はない。
それにも関わらず、ディズニーの名前を出して比較されてしまうのは、同地のテーマパーク計画が相鉄時代から一貫して東京ディズニーランドを意識したものになっていたからだ。
東京ディズニーランドは千葉県浦安市に所在し、今年に開園40年という節目を迎えた。日本国内には、ディズニーランドよりも古くから営業を続けている老舗遊園地は今でも多い。
それでもディズニーランドが特筆すべき存在になっているのは、東京ディズニーランドの登場によって、日本の遊園地業界やレジャー業界は大きく変革したことが大きい。
ちなみに、近年は大規模な遊園地をテーマパークと形容する向きが強くなっているが、そもそもテーマパークという言葉(もしくは概念)はディズニーが創案した。
そのため、テーマパークの定義は明確ではなく、極論を言ってしまえば「ディズニー以外は、すべてテーマパークではない」と表現することもできる。
そんなディズニーが創案したテーマパークという言葉は、時代とともに人口に膾炙し、一般名詞化しつつある。それほど、ディズニーランドが日本の遊園地業界・レジャー業界に与えたインパクトは大きかった。
「ディズニーランド」誘致は茨の道
そんなディズニーランドだが、1983年の開園前にも日本に誘致する動きがあったことはあまり知られていない。
その前史を知ると、政財界が経済活性化や地域振興といった面で、ディズニーに大きな期待を寄せていたことが読み取れる。そうした政財界の期待感を知っておくためにも、駆け足ながらディズニー前史をおさらいしておきたい。
日本にディズニーの遊園地を建設しようという動きの萌芽は、戦災の傷跡が癒えてきた1950年代まで遡る。東京・千葉の政財界人たちがディズニーの遊園地を日本へ誘致しようと動き出した。
ディズニー誘致の先頭に立ったのは、後に京成社長となる川崎千春。川崎は、アメリカへバラを買い付けに出かけたことでディズニーと出会った。
ディズニーに魅了された川崎は、日本でも同じような遊園地をつくりたいと考え、ディズニーと交渉に臨む。
遊園地の候補地と想定されていたのは、千葉県我孫子町(現・我孫子市)・柏市・沼南町(2005年に柏市と合併)にまたがる手賀沼湖畔だった。
同地に計画されたディズニーランドは、後に浦安沖の埋立地にオープンするディズニーランドとは出資者も整備計画も異なる。そのため、前者と後者を区別する意味から前者は「手賀沼ディズニーランド計画」とも呼ばれる。
手賀沼ディズニーランド計画では、経営母体として官民一体の全日本観光開発という会社が設立された。
同社は発案者の川崎が率いていた京成のみならず、千葉県、そして京成のライバルでもあった東武鉄道、東京を本拠地にしてエンターテイメント事業を手がけていた後楽園スタヂアムなどが出資した。
会長には当時の前・東京都知事だった安井誠一郎が、社長には東京都競馬会長だった米本卯吉が就任。京成は今でこそ千葉県内に本社を構えているが、当時は東京都台東区に本社を構えていた。
つまり、ディズニーを誘致しようとする顔ぶれは東京勢が多くを占め、東京主導で計画が進められていたことになる。
官民一帯で進めていた手賀沼ディズニーランド計画だったが、事業が進むにつれてトラブルが多発。そうしたトラブルにより計画は瓦解した。
後述するが、川崎はディズニー誘致を諦めきれずに再挑戦している。それが浦安沖の埋立地で実を結んだ。
ディズニー誘致の影で生まれ、消えた「横浜ドリームランド」
同時期、ほかにもディズニーの遊園地を日本に誘致したいと考える人物がいた。
それが、関西を地盤に劇場やホテル経営などを手掛けていた実業家の松尾國三だった。松尾は日本を観光立国にすることを念願にしていた。
その野望は半世紀以上を経た現在、ようやく実現に近づきつつあるが、当時はまだレジャーで旅行に出かけるというライフスタイルは定着していない。
ゆえにアメリカのディズニー経営陣も、時期尚早としてクビを縦に振らなかった。
ディズニーの協力を得られなかった松尾は、独力で遊園地づくりに挑む。そして、1961年にディズニーのエッセンスを取り入れた遊園地を開園させた。
奈良県奈良市に開園した遊園地は「奈良ドリームランド」と命名され、それまでの遊園地とは異なって西洋の雰囲気を伴っていた。これが人気を博していく。
松尾は事業拡大を狙って、1964年に横浜市戸塚区に「横浜ドリームランド」をオープン。しかし、奈良ドリームランドは近鉄奈良駅から徒歩でアクセスできたが、横浜ドリームランドは駅から遠く、アクセスはバス頼みだった。
横浜ドリームランドへと向かうバスは、渋滞に巻き込まれるのが常態化。松尾はアクセスを改善するため、1966年に東海道本線の大船駅とドリームランドを結ぶモノレール線を開業させる。しかし、モノレールはトラブルで翌1967年には運行を休止した。
こうしたアクシデントによって、横浜ドリームランドの経営は傾いていく。
さらに不運なことに、経営者の松尾が1984年に死去。主を失ったドリームランドは1988年に流通大手のダイエーに売却されて、系列の子会社になった。
その後、ダイエー主導で経営再建を目指した。ダイエー系列になっても横浜ドリームランドの経営は好転することなく、2002年に閉園した。
一方、手賀沼ディズニーランドで挫折を味わった川崎は、その苦い経験を活かして、1960年から再びディズニーの日本誘致に動き出した。
今度の候補地は千葉県が進めていた浦安沖の埋立地。京成は三井不動産と朝日土地興業(後に三井不動産に吸収合併)にも協力を取り付けた。
京成・三井・朝日は3社が出資した合弁会社のオリエンタルランドを立ち上げ、オリエンタルランドが遊園地の経営をするという方式をアメリカのディズニー経営陣に提案した。
なぜ、そんな奇妙な経営方式を提案したのか? その理由は、ディズニー経営陣たちが東京ディズニーランドの先行きを不安視していたからだ。
ディズニー経営陣は、アメリカ文化を凝縮したようなディズニーの世界観を東洋の日本人が受け入れられるのかという疑問を拭えなかった。
今から見れば、こうした不安は笑い話でしかない。しかし、当時は4~5年もしたらディズニーは日本から撤退するだろうという見方が大勢を占めていた。
オリエンタルランドが経営の全責任を負い、ディズニーはロイヤリティを得るという方式は、経営的リスクが低い。これがディズニー側の不安を払拭させ、日本進出を決定する一因にもなった。
こうしてディズニーは日本へと進出する。
日本国内におけるディズニー関連の歴史を概観すると、多くの挫折と失敗を積み重ねている。今の東京ディズニーリゾートの繁栄は、それらを乗り越えて到達した。
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