夫婦二人三脚で不動産業を営む矢沢さん夫妻(矢沢さん提供)

愛知県北東部の山あいにある人口3000人に満たない小さな町で、空き家を専門に売買や賃貸仲介を行う不動産会社がある。

愛知県北設楽郡東栄町の「奥三河不動産」は、町で唯一の不動産会社。さらに、代表の矢沢勝幸さん(73)は、かつて愛知銀行の頭取を務めた異色の経歴の持ち主だ。

矢沢さんはなぜ、畑ちがいの不動産業界に飛び込み、空き家専門の不動産会社として「第二の人生」を歩むことにしたのだろうか―。

元頭取がなぜ不動産屋に?

2019年6月に愛知銀行の頭取を退任するまで、40年以上にわたり金融業界に身を置いてきた矢沢さん。異業種である不動産業界への参入を決めたきっかけは「母親の介護だった」という。

「東栄町に住んでいた母の介護が必要になり、妻と実家に引っ越しをしました。それまで、お盆と年末年始に帰省するだけでしたが、介護を機に東栄町に行く機会が増えたことが全ての始まりでした」

東栄町は、名古屋の中心市街地から車で2時間ほどの場所。近年は少子高齢化や人口流出の影響で人口減少が続いており、自然豊かな環境や空き家を活用して移住を促進する政策に力を入れている。

美しい自然に囲まれた愛知県北設楽郡東栄町(矢沢さん提供)

あるとき、役場の職員から「町内で不動産取引ができる人を探しているので、良い人がいたら紹介してほしい」と矢沢さんに声がかかった。当時は、物件の売買や仲介ができる人材が町内にいなかったためだ。

「その話を聞き、私はすぐに『自分がやります』と伝えました。生まれ故郷の東栄町のために活動したいと考えていたので、恩返しとして町のために尽くしたいと思ったのです」

実は矢沢さんは宅建士資格を持っていた。金融機関での勤務時代に不動産融資に関わったことがあり、その際に取得したのだ。

2020年、町内唯一の不動産会社である「奥三河不動産」を夫婦で設立。東栄町のほか、隣接する豊根村や、静岡県浜松市などにある空き家も扱っている。

70歳の新人不動産営業マン

宅建士資格を持っていたとはいえ不動産の実務経験はなく、不動産については素人同然だった矢沢さん。開業当初は戸惑ったと振り返る。

「当時の私には実務経験がありませんでしたが、お客さんからは当然ながら『不動産のプロ』と見られます。だから、不動産実務について必死で勉強しましたよ。開業後早い段階で若手の司法書士と知り合えて、登記のやり方などを教えてもらえたのは幸運でした」

矢沢さんが扱う案件は当初、役場からの紹介がメインだった。

東栄町にある空き家の数は、町が把握している限りで数百に上る。町の空き家バンクには、物件の売却希望者と購入希望者の双方が登録しており、町が売買や賃貸の仲介取引を矢沢さんへ依頼する仕組みだ。

空き家活用事業で連携する東栄町役場(矢沢さん提供)

開業から丸3年が経った今では、「町で唯一の不動産屋」として認知が広がり、売却や購入を希望する人から直接依頼が舞い込んでくるようになったという。

「不動産業を始めた当初は、こんなに忙しくなるとは思わなかったですね」と、笑顔を見せる。

移住やセカンドハウス需要取り込む

奥三河不動産での累計取り扱い件数は56件(2023年末時点)。うち35件が空き家の土地・建物の売買、18件は町外の方による購入、残りの17件は町営住宅などからの住み替えだ。

「物件を購入したいという連絡は増えています。田畑が付いている農地付き空き家が多く、自分で作物を育てながら暮らしたいと思う人には魅力的に映るのでしょう」

東栄町周辺では現在、長野県飯田市と静岡県浜松市を結ぶ「三遠南信自動車道」の工事が進行中。2025年度に浜松方面へのアクセスが良くなる見込みだ。

名古屋市や豊橋市といった都市部で働いていた人が、定年退職後の住まいとして東栄町を希望するケースもあるという。また、セカンドハウスとして購入し、週に2日ほど東栄町で暮らしたいという人も。ある30代の夫婦は、子どもを自然豊かな環境で育てたいと移住を決めた。

奥三河不動産の取り扱い物件(矢沢さん提供)

物件の価格は平均で数百万円、安いものだと20〜30万円、高いものだと1800万円ほどだという。

奥三河不動産が行うのは基本的に売買や賃貸の仲介のみ。矢沢さん自ら物件のリフォームや管理を行うことはなく、リフォームを希望する購入者には地元の工務店を紹介している。

農村部特有の空き家事情

東栄町に多い農地付き空き家は、かつて売買のハードルが高かった。現在では移住や就農を促進するため条件が緩和されているが、課題は残る。

「空き家といっても都市部と、東栄町のような山間部では事情が異なります。山間部の空き家というのは、農地が隣接していることが多く、農地法の適用によってそもそも売買しにくく、流動性が低いという問題がありました」

土地柄、農地付きの戸建てが多い(矢沢さん提供)

また、資産価値が低いため空き家の所有者が相続登記をしなかったり、相続をしても放置してしまったりするケースも目立つ。

「要因は所有者が遠方に住んでおり、所有に消極的であることです。物件までの距離があれば行き来も、管理を手間に感じるでしょうから。土地は相続登記をしても、建物が未登記という中途半端な状態になっていることもあります」

相続登記については、2024年4月から義務化されるが、矢沢さんは「義務化だけでは不十分だ」と指摘する。

「不動産関連業務に携わる専門職から所有者への働きかけがもっと必要だと思います。彼らであれば、例えば土地が相続登記済みなのに、建物が未登記である場合、そのことに気付くはずです」

元銀行マンから見た不動産投資

愛知銀行で頭取まで務めた矢沢さん。長年にわたり金融業界に身を置き、バブル崩壊前後の栄枯盛衰を見てきた。矢沢さんから見た不動産業や不動産投資は、どのようなものなのだろうか。

「バブル崩壊を経て銀行の倒産や統廃合のきっかけとなったおおもとは、不動産向けの融資でした。銀行が金を流すので、土地の価格が上がったが、それがある時ガクンと下がった。不動産の担保価値がなくなったことで、倒産が相次ぎ、金融機関は債権を回収できなくなったという流れです。あの時代の出来事は、つねに戒めとして念頭にあります」

矢沢さんが頭取に就任したのは、2015年6月。日銀の黒田東彦前総裁が2013年から始めた「異次元の金融緩和」の真っ只中だった。

「ズボッと低金利に嵌まってしまいましたね。こんなに長く低金利の時代が続くとは思わなかった」

不動産への融資姿勢は金融機関によって異なる。これは、多くの投資家の共通認識だろうが、矢沢さんはこの点について次のように語る。

「金融機関にとって、不動産向けは比較的金利が取れる融資であることは確かです。だから、金利で稼ごうとする金融機関は不動産にウエイトを置きます。ノンバンクではその傾向が顕著ですが、その分金利が高いですよね」

銀行員時代、相続対策で個人がアパートを建てるケースを何件も目にした。

「駅から遠く離れているなど、なんでこんなところにアパートを建てるのだろうかと首をかしげたくなる立地が多かったですね。家賃保証が付いていると言っても限度があるし、築年数が古くなれば入居率や家賃も下がりますが、相続対策でアパートを建てる方はそうした事情を十分に理解していない人もいます。そういう場合は、金融機関から助言する必要もあると思います」

不動産の仕事を通じて得た繋がりを大切にしたい

頭取を退いた今、町で唯一の不動産業者として活躍する矢沢さんに、仕事のやりがいを聞いた。

「物件に買い手がついたとき、売り主から感謝されるときに喜びを感じますね。売却できただけでなく、売主が売りたい価格もしくは、希望に近い価格で売れたときも嬉しいです」

自然に囲まれた東栄町の物件(矢沢さん提供)

矢沢さんが相談を受ける空き家の所有者の多くは、「こんな物件は売れない」と半ば諦めているという。東栄町は山あいにあり、相続人が遠方に住んでいるケースが多い。

「将来自身が住む可能性がないにもかかわらず、先祖代々の土地を自分の代で処分することへの躊躇もあって、草むしりだけに来ている方もいます。一方で、移住のために物件を探す方もいるので、空き家を持て余している方と必要としている方の橋渡しをしていけたらいいですね」

最後に、今後について聞くと、矢沢さんは「今の仕事を続けていく」と迷いなく答えた。

「不動産の仕事を通じて、いろんな人と出会い、繋がりを持てることが楽しみです。ある人は退職後の人生を送るため、ある人はお子さんを自然豊かな環境で育てるために東栄町に住む選択をされました。町での暮らしに希望を持っている方が安心して住めるような物件の提供をしたいです。ささやかですが、全力で取り組んでいきます」

(楽待新聞編集部)