退職記念ハワイ旅行でのパールハーバーで・・・

今年も、終戦記念日、8月15日が来ました。
本稿執筆時、色々なメディアで記念企画が報道されています。

というわけで、今月は、終戦記念日に関しての余談をさせて頂きます。
ご興味が無い方は、前半は読み飛ばしてくださいませ。

私の年代は、親や伯父が戦争実体験者ですので、戦時中の国内外の実戦体験談を、子供の頃から直接語り聞かされて育った世代といえましょう。

南方で戦死した伯父、特攻隊の生き残りの伯父、父は海兵団でカッターを漕いでいるうちに終戦で生き延びました。
私自身、親や、親戚から数々の命がけの戦時体験を聞いて育ち、従兄弟には、大陸で生まれ、命からがら、紙一重で生還できた者もおります。

西武グループの創業者である堤康次郎氏は大戦末期、防空壕へ電話線を何本も引き込み、B29の空襲で焼け野原となった東京の土地を買い捲ったと言いますので、皆が生き死にで精一杯の時でも、先見の明のある人の行動には驚きます。

それはともかくとしても、当時に比較すれば、不景気やリストラ、少子高齢化、格差社会はあるものの、生命が安全である現在は恵まれていると思います。

連合艦隊司令長官 山本五十六

連合艦隊司令長官 山本五十六

拙書に以前、退職旅行でハワイを訪問したお話を書かせていただきました。
ハワイといえば、太平洋戦争で有名なのは、開戦時の南雲機動部隊によるパールハーバー攻撃です。
そして、その発案者は、当時の連合艦隊司令長官だった山本五十六大将であることはあまりにも有名です。

ここでお話は脱線の更に脱線となってしまいますが、オアフ島を奇襲した南雲艦隊の作戦詳細は、当時航空甲参謀だった源田実中佐によって立案され、陰では源田艦隊などと囁かれていたようです。

戦後、航空自衛隊幕僚から参議院議員を務め、リタイア後、お住まいが近かったこともあり、源田実氏にお会いすることがありました。既に82歳になっておられたにも係わらず、その眼光の鋭さに圧倒されました。

源田サーカス(航空自衛隊のブルーインパルスの前身)で有名な戦闘機乗りだった人の、野獣のように突き刺す目は強く印象に残り、今も忘れません。

源田氏は参謀だったので、旗艦空母赤城艦橋に残り、パールハーバー上空の最前線へは出ませんでした。航空作戦のプロで有名な源田氏ですが、生涯を通じて実際の空中戦の経験は皆無なのです。
しかし、兵学校同期だった淵田美津夫中佐は、空襲部隊の攻撃隊の総指揮官として出撃しました。中佐の飛行隊長という人事は異例で、国家を挙げての作戦だったことを物語っています。

淵田氏は戦後、キリスト教の宣教師となって、
「私がパールハーバーを攻撃した淵田です」
と全米に布教して回り、話題となりました。

人生色々な道があるものです。

閑話休題。

私が最初にハワイを訪れた時は、アリゾナ記念館を見学しましたが、パールハーバー奇襲の立案者である山本五十六氏のことが客観的に紹介されていたのは、さすがにアメリカだなあと感じました。

もっとも、山本権兵衛氏、加藤友三郎氏の流れを引継ぐ、米内光正氏、井上成美氏、堀悌吉氏、らとともに、条約派、リベラル派といわれていた山本氏だからこそかもしれませんが・・・

真珠湾の水深はわずか15mだったため、撃沈された戦艦群はサルベージされて、攻撃を免れた港湾ドッグ施設で修理されて、戦線復帰したことはよく知られています。

しかしアリゾナだけは、水平爆撃隊、97式艦上攻撃機の98式800kg徹甲爆弾(映画、パールハーバーで信管の風車の回転が止まると同時に爆発するシーンが有名です)の直撃で轟沈してしまい、損傷が激しかったため、1000人以上の乗員の亡き骸を抱いたまま、海底墓地として残され、アリゾナメモリアルとなっています。

私が見学したときも、海底から覗く機関部からの煙突周辺から重油が漏れ出て、お亡くなりになられた方々の御霊のように、海面に光の輪を作っていました。

パールハーバーには、日本では決して触れることができない、第2次大戦の貴重な歴史物に触れることができます。

しかし、ポピュラーな宿泊先であるワイキキからは直通バスはなく、アラモアナショッピングセンターで路線の乗り換えが必要です。
そのため、距離の割りに時間がかかります。

しかもパールハーバー見学は、事前の歴史解説映画鑑賞が義務付けられているなど、ルールが厳格で段取りに時間がかかります。どうしても1日コースとなり、しかも1回の訪問ではその一部しか見学できません。

そこで、退職旅行で再訪時には、記念艦ミズーリを見学しました。
ミズーリは、日本の大和・武蔵に次ぐ、超弩級(イギリス戦艦ドレーットノートを超える巨艦という用語)の4万数千トン級の当時は最新鋭戦艦で、イラクの湾岸戦争まで現役で活躍した戦艦ワシントンの姉妹艦です。

ミズーリ艦上での降伏調印式

ミズーリ艦上での降伏調印式

終戦時、東京湾上のミズーリで無条件降伏調印式が開催され、重光全権団が調印に臨んだのは、学生時代、社会科の教科書でご覧の方も多いことでしょう。
当時は、この大役を政府・軍関係者では貧乏くじと感じ、誰も引き受けたがらなかったといいます。

しかし、全権団とともにミズーリへ乗艦した、同盟通信社、加藤万寿夫氏の手記には、「その時、振舞われた1杯のコーヒーの長年忘れていた西洋の香りは、平和が帰ってきたことを五感に蘇らせた」 と記されています。
これが調印式で最も印象に残ったことだったそうです。

今の豊かな時代、たかがコーヒー、と信じられないことで、人間は生きる環境によって、如何に感じ方が変わる生き物かを実感します。

当時、日本全権団が調印のテーブルに付いた甲板には、私が見学した際は、無条件降伏調印式のメモリアルプレートが展示されていました。

調印式では、巨大な40cm主砲の砲塔にまで、鈴なりにアメリカ人水兵が腰掛け、日本全権団に好奇の視線を向けていた写真は、今も広く出回っています。

ツワモノどもの夢の跡ではありませんが、当時の喧騒が嘘のように、現地の観光客の姿もまばらで、その甲板に落ちる艦橋の日陰があたかも日時計のように、歴史の生き証人としてひっそりと時を刻んでいるようでした。

水野義人と人相・骨相学

そして、前述の山本五十六氏でもう一人思い出す人物は、水野義人氏です。
といっても、ご存知の方は少ないと思います。

水野氏は当時、海軍に嘱託として雇われていた民間人の青年です。

水野義人氏は和歌山市の生まれで、卒業論文は、「太占(ふとまに)について」というものでした。
いわゆる、人相・骨相の研究で、俗に言えば「占い師」です。

昭和十一年頃、当時航空本部長だった山本五十六氏のもとで教育部長をしていた大西瀧治郎氏は、霞ヶ浦航空隊の副長桑原虎雄氏に電話をかけてきました。

「自分の家内の父親が順天堂中学の校長をしているが、その学校の卒業生で水野というのが手相、骨相をよくみるので評判なのだが、一度会ってみてくれませんか」

桑原氏は、霞ヶ浦航空隊での、飛行機訓練での相つぐ殉職や事故に、藁でもつかみたい気持ちであったので、さっそく水野氏に会うことにしました。

水野氏の言うには、
「航空事故が続発するのは搭乗員の選考方法が間違っているからで、飛行機の操縦を上手にやるような人は、手相、骨相にどこか変わったところがあるはずだ」
とのこと。

そこで桑原氏は、教官や教員120名ほどを集め、適性を評価してほしいと言いました。

すると、水野氏は一人あたり5、6秒ほど、じっと彼らの顔をみつめ、つぎつぎと適性を甲・乙・丙の評価でメモしてゆきました。
それを桑原氏が航空隊の評価表と比較すると、80数パーセントの的中率でした。

さっそく、大西氏と桑原氏は、海軍省人事局や軍務局に水野氏の採用方を陳情しましたが、
「海軍に人相見とはねえ」ということでどこも相手にしてくれませんでした。

そこで最後に山本さんに相談してみよう、ということになりました。

山本氏はすぐに会ってくれ、水野氏からいろいろと手相、骨相についての基本的な説明を受けたあと、その場に集めた士官のうち誰が飛行機乗りか分かるか、と聞きました。

水野氏は即座にその中から星一男氏と三和義勇氏の2名を指しました。

二人とも当時最も優秀なパイロットでした。
一方では、あまり操縦が「お上手でない方」も言い当てました。

山本氏はただちに水野氏を海軍省嘱託として、霞ヶ浦航空隊で練習生、予備学生の採用試験に立ち会わせることにしました。

当時、候補生、予備学生、操練、甲乙丙各種予科練などの方々が霞ヶ浦へ入隊される際、
「人相見に手形を取られ、人相判断をされた」
と多くの証言があるのは、このためです。

その後、昭和15年頃に水野氏は、
「あと一年もすると戦争がはじまりますよ」と・・・。
「どうして判るか」と聞くと、
「最近、街を歩いている女性の顔を見ると、どうも未亡人の相が出ています」
つまり、夫を兵隊にとれら、戦死される方が増えるということでした。

「戦局はどんな具合に進むかね」と尋ねると、
「初めは順調にいきますが、あとはどうもね」というので、どうしてかと尋ねると、水野氏は、
「廊下を歩いている軍令部の人たちをみていると、どうも顔の相がよくありません」と答えました。
水野氏の言ったように、その翌年、戦争がはじまったことは歴史が語る通りです。

その後、昭和20年はじめ、水野氏は
「最近、東京の街を歩くと老若男女、死相の出ている人が急増している。大変なことが起こる。」
と言っていた矢先、3月の東京大空襲で何十万人の一般市民の方が亡くなられました。

昭和20年7月頃、水野氏に、
「戦争はこれからどうなると思うかね」と尋ねると、

水野氏はあっさりと、
「来月中に終わりますよ」

驚いてそのわけをただすと、
「最近、特攻基地を回ってみましたが、特攻隊の人たちの顔からどんどん死相が消えています。これは戦争が終わる徴候です」と答えたそうです。

終戦後、第二復員省のもとに横須賀地方復員局人事部東京支部が開設され、水野氏は復員者の観相を見て、終戦の混乱期に途方にくれている若い復員者の進路相談に当たりました。

その後、水野氏は司法省嘱託として府中刑務所において犯罪者の人相の研究などしていましたが、GH Qの命令で免職となってしまいました。
いわゆる公職追放です。

しかし、昭和26年に小松ストア社長の知遇を得て、系列のフェアキントホテルの取締役や相談役を勤められ、昭和47年、61歳で亡くなられました。

このお話は、人相・骨相学は、科学的根拠のある統計学の一種である証拠と思われます。

素人でも良く耳にする
「ウサギ耳の人は、臆病で気が優しい」とか、
「鼻があぐらをかいている人は、豚もおだてれば木に登る」とか、
「魔女鼻の人は、一度言い出したら、絶対に主張を曲げない頑固モノ」
確かに、なるほどな、と思い当たる節はあります。

不動産投資でも、入居者審査には、滞納リスクや、事件事故リスクなどにお悩みの大家さんも多いかと思います。

水野義人氏のように、人相骨相から、入居者リスクをピタリと言い当てる才能があれば、非常に助かると感じるのは、私だけではないかと思います(笑)

また、実際に人に会ってみて始めて見えるのが手相です。
入居者審査などにも、手相がある程度生かせると面白いかもしれませんね(笑)