
1970年代に投機的に開発された住宅地。一部は実際に宅地として利用されたが、放棄されている区画も少なくない(著者撮影)
バブル時代に無理に造られた「限界ニュータウン」は、立地が不便なため大量に売れ残っている―。このように誤解している人は多いかもしれません。
しかし、実際に限界ニュータウンの分譲地の登記を見ていると、買い手がつかず売れ残っている土地は皆無で、ほとんどの場合、一度は完売しています。
1960年代以降の日本は、都市部への膨大な人口流入が住宅不足と地価の高騰を招き、ベッドタウンは都心から外側に広がっていく一方でした。
当時の投機型分譲地も、そうした土地ブームに後押しされる形で流行したものです。いわゆる「原野商法」が横行したのもこの時代です。
日本中が開発ラッシュに沸き、土地は値上がりを続けるものと無条件に信じられていた社会状況の中、分譲時点での立地条件や利便性はほとんど考慮していない、野放図な土地取引が繰り返されていました。
そうした時代に行われた無秩序な乱開発によって生み出された宅地を見てみると、接道義務を満たしていないのになぜか新築されている、といった実態が目に付きます。
今回は、このような開発がなぜまかり通っていたのか、そのナゾに迫ってみたいと思います。
土地ブームの終焉と「負動産」化する分譲地
バブル期頃の土地ブームは、オイルショックによる景気の減退やインフレによりいったん沈静化します。
もちろん、それで住宅不足が解消したわけではなく、宅地開発はその後も続いています。しかし、あからさまに投機を目的とした宅地分譲は下火となり、すでに販売された分譲地も、実際に宅地として利用されることもなく空き地のまま放置されていきました。
投機的な不動産取引がなくなったわけではありませんが、千葉県北東部の交通不便な分譲地は、投資商品としても、また住宅用地としても主流にはならなかったのです。
1980年代の末頃の時点で、そうした投機型分譲地の一部は、管理されることもなく荒れはじめていました。
特に原野商法の分譲地は、バブル期の時点でも売却困難な「負動産」と化しており、すでに社会問題化し始めていました。一方で日本社会は空前の好景気となり地価は高騰、都市部においては庶民の住宅取得はますます困難になりました。

まばらに家が建つ分譲地(著者撮影)
千葉県ではこのタイミングで、70年代に造られた投機型分譲地が、ようやく本格的に住宅地として利用されていくようになったのです。それまでほとんど空き地だった古い分譲地に、まばらに新築の家が建ち始めました。個人の注文住宅だけでなく、建売住宅の建築も盛んに行われました。
上下水道もなく、時には道路の舗装も行われていない分譲地にまで建売住宅が並んだのは、その住宅販売が土地の分譲とセットで行われたものではなく、旧分譲地を「再利用」する形で進められたことが理由です。
売主は区画ごとに異なり、それぞれ異なる思惑を抱えているため、業者であっても都合よく予算内でまとまった区画を取得できるわけではありません。
そのためバブル期の建売住宅も70年代の宅地造成と同様、そこが住宅地として使用に耐えうる水準であるかどうかはお構いなしに、ただ安価に取得できた区画に無秩序に建築されていました。
これが千葉県北東部の各自治体に末期的な「スプロール化現象」(都心部から外側に向かって乱開発が行われる現象)を招くことになります。

1970年頃に開発された千葉県旧下総町(現・成田市)の住宅分譲地。撮影年は1979年だが、開発から数年経過した時点でも、建物はほとんど建てられていない(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより)

2010年に撮影された同じ旧下総町の住宅地の航空写真。バブル期を経て住宅は多少増加したが、その後も多くの空き地が残されている(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより)
建築不可の分譲地に…
そんな乱開発が巻き起こった千葉県北東部の自治体の中で、落花生の名産地で知られる「八街(やちまた)市」は、近隣市町村と比較して都市計画区域の指定が早く、市独自で宅地開発の要綱を定めていました。
ところが、それは必ずしも有効に機能していたわけでもなく、市内にはその要綱を守らず開発された違反造成地がいくつも残されています。そのような分譲地は基本的に建築許可は下りないはずなのですが、建築不可の分譲地にすらいくつかの家屋が見られることもあります。
当時、八街周辺の建売住宅の現場に、水道設備業者として入っていた方は、ある時建売現場の工事に入ったところ、俗に「赤紙」と呼ばれる警告書が貼られていたことがあったと回想しています。赤紙というのは、違反建築を理由とした、責任者の出頭を命じるためのものです。
造成が不十分なだけではなく、本来必要な手続きすら省いてまで建売住宅の建設・販売が盛んに行われました。それはまさに「雨後のタケノコ」のような状態であったと言います。
以前、八街市内で販売されていた150万円の古家は、広告の概要欄に「未接道のため再建築不可」との記載がありました。
しかし築年を見ると、その当時すでに八街市内では建築確認申請が必要だった時代のはずで、ではその古家はなぜ建てることができたのか、疑問が残ります。

1971年に開発された八街市内の分譲地。家屋は複数並んでいるが、画像中央の舗装道路は建築基準法の道路として認められていない(著者撮影)
管轄の印旛土木事務所に確認してみたものの、その古家の建築確認申請の記録は見当たらない、との回答でした。
古家のある分譲地は八街町(1971年当時)に対して開発の届け出を行っておらず、前面道路が建築基準法の道路と認められていなかったのです。
強引な「敷地延長」
しかしその古家が建つ分譲地には、他にも複数の家屋が立ち並んでいます。その古家の築年は1972年でしたが、近隣の家はそれよりももっと新しく、典型的なバブル期の住宅も数棟あります。
登記を見ると、そのいずれも新築当時の購入者は何らかの理由で手放しており、現在は(所有者の現住所から推測するに)賃貸物件として運用されていると思われるものもあります。
近年は少々価格が上昇傾向にありますが、八街は元々、人口規模の割に地価の安い町として知られ、バブル期の建売住宅は手頃な価格の収益物件として盛んに売買されています。
こちらの家屋についても閉鎖登記簿を確認すると、いずれも市川市に存在した中堅デベロッパーの手による建売住宅でした。
先に述べた古家と異なり、建築確認申請も行われていた記録がありましたが、接道要件をどのようにクリアしているのか尋ねてみたところ、図に示したような形で「敷地延長」を行い、それで確認申請が通されていました。

問題の分譲地に建つ家屋の敷地延長の概略図。玄関側に面している通用路ではなく、別の所有者が保有する区画の一部を敷地延長用地とみなし、建築基準法上の道路に接道させている(国土地位院地図・空中写真閲覧サービスの航空写真に筆者が加工)
しかし敷地延長は、あくまでその宅地の専用の通路として供されることを条件に特例として認められるものです。
この八街市の建売住宅に設定されている敷地延長部分は、隣接しているだけの別の区画であり、通路として利用されている実態もありません。近所の方が菜園として利用していたり、あるいは北側の事業所の敷地の一部であったりと、徒歩でも通行できる現況にないのです。
どの家も玄関は前面道路(建築基準法外の道路)に位置しており、敷地が塀や柵で囲われていることから見ても、その玄関が唯一の出入り口であることは明白です。地図上で見てもその延長方法は明らかに不自然で、なぜこれで申請が通るのか不思議になるほどのものです。
敷地延長部分の区画の所有者は、住宅の所有者とも異なります。敷地延長は必ずしも申請者本人の名義である必要はないのですが、特に南側2棟の敷地延長部分となっている区画は、その敷地のすべてを2軒分の通路として提供している形になり、分譲地としてはあまりに不自然です。現況は菜園ですので、通路として正式に所有者間で賃貸借契約が結ばれているようにも見えませんでした。

山形県在住の地権者が所有している区画。現在は菜園が造られているが、建築確認申請上では、写真右側の住宅の敷地延長部分とみなされている(著者撮影)
そこで、敷地延長部分とされている菜園の所有者を訪問して事情を聞いてみようと登記を確認したところ、その所有者は山形県在住でした。
住宅地図で確認するとまだ同じ場所に住んでいるようです。その頃仕事で仙台市に行く用事があったので、ついでに山形県まで足を運んで訪問してみました。
「そういえば、1年間貸していた」
現在は菜園となっている敷地延長部分の所有者さんは、高齢ではありますが非常に健康そうな印象で、質問にもすべて明確にお答えいただきました。
ただ菜園に関しては、「菜園にされていることは知っているが、誰が耕しているのかはわからない」と語っていました。私は近所の人から、所有者さんがご自身で借りて耕していると聞いていたのですが、実際の事情は異なるようです。
ただ、自身で使う予定はなく、放置して指導されるくらいなら菜園として使ってもらえばと、特に深刻には捉えていないようでした。
一方で、自分の土地が敷地延長として使われていることについて尋ねると、思い出したように、「そういえば昔、東京の不動産会社から人が2人来て、道路がないと家が建てられないから土地を貸してほしい、と頼まれたから1年間貸したことがあった」と語っていました。
「でもそれはもう返してもらっているよ」と所有者さんは語っており、確かに登記を見ても賃借権の設定などは一切ありません。
しかし敷地延長の申請というものは、1年の有効期限を定めて行われるものではなく、そこに宅地がある限り確認申請の要件として機能し続けるものです。そもそも期限という概念はありません。
本来はそうした特性について双方納得のうえ、必要があれば申請者が地代を支払って敷地延長申請を行うべきものです。
それを1年間だけ貸してくれというのは、あくまで「建売住宅の建築時に一時的に確認申請が通せればよい」と考えていたからにほかなりません。前述の元水道設備業者の方が回想していたように、この家屋もまた、本来行うべき申請を省略したまま建築に着手し、途中で行政からの警告を受けて、慌てて隣接区画の地権者のもとに訪れたものと推察できます。
接道要件を満たすためにわざわざ山形県の地権者の家を訪れるくらいなら、最初からその方の土地の買取交渉を行えばよいだけの話であり、手順として明らかに順番が逆だからです。

建築基準法外の道路であるために、道沿いの建物は、確認申請の記録が残されていないか、他者の敷地を延長部分として申請が行われていた(著者撮影)
考えると恐ろしいのは、このようなイレギュラーな敷地延長申請について、きちんと当時の購入者が理解できるように説明がなされていたのか、という点です。
しかもすでに述べたように、これらの家屋はすべて後に売買されています。仲介業者は中古住宅の売買を行う際、その建物の建築台帳記載証明書(建築確認申請の記録)には目を通しますが、地価の安いエリアの物件は売買時に再測量を行うことも稀ですし、よほど境界が不明確でもない限り、隣接した空き地所有者の認識まで聞き取りを行う仲介業者はあまりいないのではないかと思えるのです。
ましてや菜園の区画については、仮に宅地として売買されることになった際、実は敷地延長が行われている事実を、登記上の記載だけで見抜くのは不可能と言っていいと思います。
登記事項証明書には建築確認申請に関連する記載はありませんし、隣接する家屋の確認申請の記録など、本来なら売買には一切不要なものです。
現実には、40坪しかないこの菜園の区画に今後家屋が新築される可能性は低いとは思いますが、バブル時代のずさんな宅地開発の傷跡が、目で見てわかる現況ではなく、このように見えない瑕疵として潜んでいることもあります。
ケーススタディとして生かすにはやや一般的とは言えない事例ですが、70年代、80年代の不動産取引の商慣習はこの程度のものも存在したのが実情です。
(吉川祐介)
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