渋沢栄一像(撮影:小川裕夫)

2024年7月3日から、新紙幣の発行が開始された。一万円札の顔は、肖像として慣れ親しんだ福澤諭吉から渋沢栄一へと交代した。

渋沢は生涯で約500社に関与したと言われ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)・清水組(現・清水建設)、王子製紙・帝国ホテル・東洋紡績(現・東洋紡)など、そうそうたる大企業が名を連ねている。

そうした偉業から、これまでの渋沢は「資本主義の父」と呼ばれることが一般的だった。

近年は研究が進み、渋沢が手がけた600を超える非営利事業にも光があたるようになっている。そのうち、特に注目したいのが「まちづくり」に関連する事業だ。

今回は、渋沢が東京に残した都市計画や都市開発の軌跡をたどることで、今後の東京がどのように針路を取っていくのか考えてみたい。

資本主義の父・渋沢、実は「不完全燃焼」続き

渋沢は生涯で約500社の企業の立ち上げや経営に関与したと言われ、そうした功績から一般的に「資本主義の父」と呼ばれる。この認識は間違っていないが、近年は渋沢研究が進んだことによって、渋沢の600超にも及ぶ非営利事業に光があたり始めている。

2020年には、渋沢を主人公にしたNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送された。同作でも渋沢は「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させる(※)」という「合本主義」という言葉を多用している。

公益財団法人渋沢栄一記念財団ホームページより引用

常盤橋公園に立つ渋沢栄一像(右奥)。2021年には、NHK大河ドラマで渋沢を演じた吉沢亮さんの看板と並ぶ光景が見られた(撮影:小川裕夫)

そうした歴史的考証が深まるにつれ、渋沢は「社会事業家」といった呼ばれ方をされる向きが強まりつつある。

渋沢が手がけていた非営利事業は、主に福祉・医療・教育分野が多くを占める。

例えば、福祉なら東京都健康長寿医療センターや日本赤十字社、医療なら東京慈恵会や聖路加国際病院、教育なら一橋大学や東京工業大学といった具合だ。それらは形を変えながらも、現代にも脈々と受け継がれている。

そして渋沢が関与した600の非営利事業の中には、都市計画・都市開発も多い。それら都市計画・都市開発関連事業は、1870年の兜町を中心に据えた金融街構想から始まる。

いまや証券の売買をはじめとする取引は、ネットでできるようになった。その影響もあって、証券の街を意味する兜町という符牒は若い世代を中心に通じなくなりつつある。

しかし、1878年に前身である東京株式取引所が兜町に設立されてから、2010年代にまでに至るまでの約130年間において、兜町の存在感は証券・株式・金融業界において絶対的でもあった。

IT化によってオンラインでの取引が主流になった現在でも、金融・証券業界における兜町の存在感は大きい(撮影・:小川裕夫)

兜町の吸引力は強く、第一銀行(現・みずほ銀行)といった金融機関だけではなく、三井物産や東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)、中外商業新報(現・日本経済新聞社)といった企業がこの地に創業した。

「銀座煉瓦街」のウラに消えた構想

こうした兜町金融街構想に着手する一方、大衆のための繁華街としての銀座煉瓦街を構想する。銀座煉瓦街は、もともと明治新政府で重鎮だった井上馨が主導した計画でもあった。

井上は世間から「西洋かぶれ」と揶揄されるほど、東京の建物を次から次へと西洋化する。その初弾ともいえる取り組みが銀座煉瓦街だった。

明治初期、銀座は大火によって、街は荒廃。井上は銀座の立て直しを図るべく、レンガを基調とした建物へと建て替えるように命令。

レンガを基調に定めたのは耐火性に優れていることが理由だが、井上はレンガの華やかな見た目を重視していた。

建物がレンガ基調になることで来街者が銀座の変貌を感じることができ、それが西洋の文化・文明として浸透していく。

視覚に訴えた井上の政策は銀座を東京一の繁華街へと押し上げた。以降、銀座は東京一の繁華街という不動の地位を築いていく。

現在の銀座に煉瓦街を偲ぶ構造物はほとんど残っていない。顕彰碑のみが、その面影を伝える(撮影:小川裕夫)

井上が立案した銀座煉瓦街で、渋沢も重要な役割を担った。井上は「銀座煉瓦街をどんな街にするか?」と完成図に心を砕いた。一方、渋沢は「銀座煉瓦街をどのようにつくるのか?」といった過程にこだわりを見せている。

渋沢は、銀座煉瓦街の建設計画において「東京借家会社」の設立を提案。渋沢が提案した東京借家会社とは、民間企業の力を引き出すための半官半民の住宅支援機関のような組織だ。

渋沢は焼け野原の銀座に民間企業がレンガ造建築を自力で建てることは資金的に難しいので、半官半民の東京借家会社がレンガ建築をつくり、民間企業に貸し与えることを想定していた。そして、満期とともに払い下げるというスキームだった。

渋沢は東京借家会社を立ち上げれば、銀座のみならず東京全体を西洋建築へと建て替えられ、それは建物の難燃化・耐震化にもつながると考えていた。残念ながら、渋沢が提案した東京借家会社という提案は政府から理解を得られなかった。

東京は「帝都」か「商都」か

こうした苦汁を舐めながらも渋沢は、東京府知事の芳川顕正が1884年から肝入り政策として進めていた東京市区改正計画に関わる。

当時は中央集権・官尊民卑の思想が根強く、ゆえに民間人が行政関係の審議委員に加わることはあり得なかった。そのため、渋沢も当初は東京市区改正計画の審議委員に加えられていない。

しかし、都市全体を議論する場に「財界」「民間」という立場から意見する人間がいないことは、経済活動・市民生活を無視した都市を計画することと同義に近かった。

近代国家の帝都を設計するにあたり、民間の発想を完全に無視することはできないと考えを改めた東京府は、渋沢と三井物産の総帥・益田孝2名を市区改正の審議委員に加える。

東京府知事だった芳川は、東京市区改正によって東京を帝都に相応しい都市にすることを目指した。一方、渋沢は東京を商都にすることを目指した。

芳川の提案した帝都は渋沢の商都論よりも耽美な響きとイメージがあり、渋沢の商都論は退けられてしまう。こうして、渋沢は東京における都市計画・都市開発で不完全燃焼を味わう。

「田園都市」計画も一筋縄ではいかず

その後も渋沢はまちづくり関連の事業を継続していく。そして、生涯最期の事業として着手したのが良質な住環境、いわゆる「田園都市」の実現だった。

田園都市は、イギリスの社会運動家として知られるエベネザー・ハワードが提唱した理想の住宅都市で、渋沢もハワードの考え方に共鳴して田園都市を目指していく。

渋沢が築いた田園都市は、東急電鉄東横線の田園調布駅前に広がる大田区田園調布もしくは世田谷区玉川田園調布がもっとも知られた存在になっている。

田園調布が高級住宅街の代名詞になるのは、1970年代から人気を博した漫才コンビの星セント・ルイスが「田園調布に家が建つ!」というフレーズで一世を風靡したことに起因している。

しかし、田園調布までの道のりは決して平坦ではなかった。渋沢は田園都市を実現するにあたり、その名もズバリ「田園都市株式会社」を設立。同社が最初に目をつけたのは現在の目黒区・品川区・大田区にまたがる洗足一帯で、ここに洗足田園都市をつくろうとした。

高級住宅街の代名詞として人口に膾炙した田園調布だが、実はこれもトライアンドエラーを繰り返して実現に漕ぎ着けている。

渋沢が明確に田園都市づくりを始めるために田園都市株式会社創立委員会を設立したのは1916年で、これまで渋沢が設立した全企業の役職から引退するという不退転の決意から出発している。2年後に田園都市株式会社を立ち上げ、洗足一帯で住宅分譲に挑む。

昨今、洗足という地名にピンとこない都民も増えているが、当時の洗足は別荘地として人気を博しており、周辺には洗足駅・洗足池駅・東洗足駅(後に旗の台駅と統合して廃止)・洗足公園(現・北千束)など洗足を名乗る駅が乱立していた。

洗足駅(PHOTO : M-Picking / PIXTA)

渋沢はブランド化していた洗足の環境が理想の田園都市に相応しいと考えたわけだが、渋沢は技術者ではなかったので田園都市づくりのノウハウはなく、洗足田園都市は渋沢が理想郷と描いた住環境にはならなかった。

さらなる理想を追い求め、田園都市づくり第2弾を進めることになった。

最後の夢は「田園調布」

洗足田園都市での反省を踏まえつつ、渋沢は田園都市の第2弾となる田園調布の開発に着手する。田園調布では鉄道駅を街の中心に据え、その役割の重要性から阪急・総帥の小林一三の支援も求めた。

ちなみに、現在は「田園調布」が一般的になっているが、造成・販売時の田園調布一帯は「多摩川台」という名称で売り出されている。

小林は自身の地盤が関西であることから、渋沢の要請を一度は固辞する。渋沢も最期の事業と決意して臨んでいるだけに、小林に断られたからと言って簡単には引き下がれない。

渋沢は粘り強く小林の説得を続け、小林も財界の盟主たる渋沢の懇願を拒否できず、条件付きで田園調布の計画に参画することになった。

渋沢は田園調布の居住者を会社に勤めるサラリーマンもしくは官僚に定めていた。当時、多くの人たちは農業や家族経営の町工場で生計を立てている人が圧倒的だった。

こうした農業や家族経営の町工場で働く人たちの多くは職住同一もしくは職住近接というライフスタイルが定着していた。そのため、東京郊外の住宅を買う必要がない。

それらの理由から、渋沢は田園調布のターゲットを会社勤めのサラリーマンや官僚など定めた。

しかし、会社勤めのサラリーマンや官僚が東京郊外に家を持つには、職場までの足が必要になる。だから、鉄道の整備は不可欠だった。

小林が参加したことで田園調布にも急ピッチで鉄道計画が進められていくが、先に田園調布の造成が始まっていた。

鉄道の完成を待つことなく、1922年8月に田園調布は販売を開始する。ところが、通勤手段がない田園調布の売れ行きは悪かった。

そんな矢先、関東大震災が発生。東京都心部は壊滅的な被害となったが、田園調布の被害は軽微だった。

渋沢は「田園調布は安全な土地」として宣伝。さらに、翌1923年には目黒蒲田電鉄の田園調布駅が開業。目黒駅まで鉄道で移動できるようになる。これを機に、田園調布に都心部から転居してくる住民は一気に増えていった。

田園調布駅は1988年に地下化工事に着手。駅舎は一時的に撤去されたが、街のシンボルでもあった赤い屋根の駅舎は地域住民と東急の熱意によって駅前広場に移設・保存されている(撮影:小川裕夫)

こうして渋沢は念願の田園都市を実現し、役目を終えた田園都市株式会社は1928年に子会社の目黒蒲田電鉄に吸収合併された。そして、最後の夢をやりきった渋沢は3年後の1931年に没している。

これまで資本主義の父と称されてきた渋沢だが、都市計画・都市開発といった面でも多くの足跡を残している。渋沢の活躍フィールドは日本全国に及んでいるので、今回は東京に絞って紹介した。

本稿で紹介した以外にも、渋沢が手がけた「東京のまちづくり」は明治神宮内苑・外苑、井の頭公園、東京港の整備など数えきれない。

渋沢が手がけた「まちづくり」は、自分だけに利をもたらすものではなく、多くの人がメリットを享受できるものだった。

渋沢が没してから90年以上が経過した。東京は戦火によって一時的に荒廃したが、戦災復興・高度経済成長・バブル景気によって世界屈指の都市へと姿を変えた。

昨今の東京は再開発が喧しいが、他方で地方都市は人口減少・少子高齢化で衰退危機に直面している。いわば東京は一人勝ちの状態だが、そもそも東京の繁栄は東京の力だけで成し得たものではない。

暮らしに欠かせない食料やエネルギーは、周辺の他都市に多くを依存している。これらの都市と一緒に繁栄を築かなければ、いずれ東京にも衰退の波が押し寄せ、その波に飲み込まれる。

それを回避して発展を継続していくためには、渋沢が提唱した合本主義に立脚した都市計画・都市開発の視点・思想が必要になっていくだろう。

(小川裕夫)

●主要参考文献一覧

『渋沢栄一を知る事典』(公益財団法人渋沢栄一記念財団 編/東京堂出版)、『常設展示図録』(公益財団法人渋沢記念財団渋沢史料館 編)、『渋沢栄一渡仏一五〇年 渋沢栄一、パリ万博へ行く』(公益財団法人渋沢記念財団渋沢史料館 編)、『私ヲ去リ、公ニ就ク―渋沢栄一と銀行業―』(公益財団法人渋沢記念財団渋沢史料館 編)、『史料が語る 三井のあゆみ』(三井文庫編集・発行/吉川弘文館)、『渋沢栄一伝』(井上潤 著/ミネルヴァ書房)、『《日本史リブレット人》085.渋沢栄一 近代日本社会の創造者』(井上潤 著/山川出版社)、『日本の地霊』(鈴木博之 著/講談社)、『シリーズ日本の近代 都市へ』(鈴木博之 著/中央公論社)、『郊外住宅地の系譜』(山口廣 編/鹿島出版会)、『明治の東京計画』(藤森照信 著/岩波書店)、『渋沢栄一 民間経済外交の創始者』(木村昌人 著/中央公論社)、『渋沢栄一――日本のインフラを創った民間経済の巨人』(木村昌人 著/筑摩書房)、『渋沢栄一―社会企業家の先駆者』(島田昌和 著/岩波書店)、『東京を造った人々1』(東京人編集室/筑摩書房)