新潟市江南区にある亀田製菓の本社(筆者撮影)

意外な地方都市に本社を構える有名企業にフォーカスして、エリアを紹介するこの企画。今回は、日本一の米菓メーカー「亀田製菓」の本社がある新潟市の「亀田郷」を取り上げる。

新潟市江南区にある亀田郷は、日本有数の稲作地帯。もともとは農業に向かない低湿地だったが、いまでは緑豊かな田園地帯が広がっている。

そんな地域で亀田製菓はどのように生まれ、なぜ現在でも本社を構えているのだろうか。亀田郷との切っても切れない関係性や、亀田製菓の成長ストーリーに迫った。

農民組合から米菓売上日本一の企業に

現在の亀田製菓は、世界中に日本の米菓を広めるリーディングカンパニーだ。2000年代からは中国や米国、タイ、ベトナムなどに進出し、子会社を設立しながら拠点を広げていった。

2024年3月期のデータを見ると、グループ全体の売上高は約955億円、経常利益は約68億円。4000人以上の従業員を抱えながら、堅調な業績で推移している。

亀田製菓旧本社に隣接する亀田製菓直売店(筆者撮影)

そんな亀田製菓が誕生したのは1946年のこと。亀田郷の小作農家だった古泉栄治が、前身にあたる「亀田郷農民組合委託加工所」を農民仲間と立ち上げた。

当初は農家から委託される形で、米やイモを水飴に加工していたという。

次第に菓子の製造販売を手がけるようになると、1957年には組織を株式会社へと変更。いまでは聞き慣れた「亀田製菓株式会社」となり、数々のヒット商品を生み出していった。

株式会社にはなったものの、当時の亀田製菓は農民組合が母体であったため、民主経営の風土が根づいていた。経営者と従業員が互いに協力しながら、信頼関係を築いていたようだ。

亀田製菓は1966年に「柿の種」、その翌年には「サラダうす焼」を販売開始。これらのヒット商品が成長を加速させ、1975年には米菓売上日本一を達成した。しかし、その道のりは決して楽なものとはいえない。

米菓は水分を抜く工程に時間がかかるため、大量生産が難しい。これを可能にしたのが、1960年代に行われた県を挙げての研究開発だった。

新潟県内の米菓メーカーは開発を進めるために結束し、県の食品研究所に出資をする。結果的に大量生産の技術が生み出され、オープンテクノロジーとして各メーカーに共有された。

亀田製菓はその技術を活用しながらヒット商品を育てていく。例えば、柿の種ではプラスチック加工機械から着想を得て、約27億円もの大規模投資によって製造ラインを短縮させた。

製造ラインの改良と同時に、亀田製菓は販促面にも力を入れはじめる。地場卸を開拓したり、広告会社に依頼してブランディングをしたりなどの施策を進めて、独自の販売網を構築していった。

亀田製菓は多角的な戦略で他社との価格競争を制するようになり、米菓売上日本一の座を獲得したのである。

かつては湿地帯だった亀田郷

亀田製菓が成長した背景には、発祥の地である「亀田郷」も関係している。

亀田郷は、新潟市の信濃川と阿賀野川、小阿賀野川に囲まれた地域。東西12キロ、南北11キロにわたる広大な輪中地帯であり、かつては「地図にない湖」と呼ばれるほどの低湿地だった。

農作業には向かなかったが、古くは戦前から稲作が行われている。当時は農業用機械がなかったため、地元民は胸まで泥田に浸かりながら作業をしていた。

その過酷さは、作家の司馬遼太郎が「食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは世界でも類がない(街道をゆく 潟のみちの一節)」と表現したほどだ。

1940年代後半になると、そんな亀田郷も本格的に開発されるようになる。戦後の食料政策で国家予算が投じられ、乾田化に向けた土地改良が進められた。

土地改良は困難を極め、当初はあちこちで水が噴き出る状態。盛り土をした場所が翌日に沈下しても、雨が降るとまた盛り上がってきたという。

それでも1948年には東洋一といわれた「栗ノ木排水機場」が建設され、何年も自然圧をかけながら乾田化を進めていった。1960年代には乾田化がほぼ完成し、亀田郷は全国有数の米どころへと成長していく。

2024年現在の亀田郷は、湿地帯であったことが分からないほど緑豊かな地域となっている。

時期を同じくして、亀田郷には亀田郷農民組合委託加工所が誕生。1950年にはもち米菓の製造をはじめるなど、地域の農産物を活用しながら株式会社へと成長した。

このように、亀田郷の土地改良と亀田製菓の成長はリンクしている。各地で乾田化が進められた時期は、亀田製菓が大量生産の研究開発に参画していたのと同時期だ。

米どころとしての亀田郷と米菓産業は、地元の農民たちが一致団結して育てたといっても過言ではない。厳しい土地環境で生きてきたからこそ、お互いに協力し合う精神が育まれたのだろう。

社内の信頼関係を重視する亀田製菓の社風にも、このような地域性が強く表れている。

地域人材の育成と高付加価値農業を目指す

亀田郷とともに成長してきた亀田製菓は、現在でも地域に根差した企業である。特に近年では、地域人材の育成に力を入れているようだ。

1990年には、地域人材を育てる目的で「新潟工科大学設立同盟会」にコアメンバーとして参画。資金集めには亀田製菓の古泉肇社長(当時)が奔走し、3年間で26億円の寄付金を集めたという。

後に、古泉氏は市の基本施策「食と花の世界フォーラムにいがた」の副会長にも就任した。本施策は食と花をキーワードとして、グローバルな視点のもと新潟市をブランディングするものである。

その活動の一環として、2008年には自らが発起人となって「食の新潟国際賞財団」を設立。講演会やシンポジウムの開催、研究者などの表彰を通して、世界に貢献できる「食の新潟」を目指すための体制を整えた。

古泉氏は個人でも2016年に「古泉育英財団」を立ち上げ、大学生への奨学金給付や研究者への助成を行っている。

亀田製菓の古泉氏には、もう1つ目立った動きがある。2014年に新潟市が国家戦略特別区域(農業分野)に指定されてからは、国の農業施策にも関わるようになった。

古泉氏は推進協議会の会長を務めており、過去には「農業将来ビジョン」と称する政策提言を行っている。このビジョンは食品産業との連携や生産性の向上によって、農業の高付加価値化を目指すものだ。

それに関連して、新潟を先端農業の研究拠点とする「アグロポリス構想」の実現に向けても活動している。

亀田郷土地改良区理事長を務めた佐野藤三郎氏の像。アグロポリス構想は、もともと同氏が国に提唱したもの(筆者撮影)

亀田製菓には、亀田郷という厳しい環境を受け入れて、産学官民連携で地域を発展させてきた経験がある。そのノウハウが、国の政策にも役立つことはいうまでもない。

亀田郷自体も、かつて佐野藤三郎氏が率いた土地改良区を中心として、農業の地位確立を図っている。

昔と変わらず、亀田郷の地から新潟の発展を目指している亀田製菓。今後は世界の食産業の発展や、日本の農業変革に挑んでいくことだろう。

(楽待新聞編集部)