舞浜駅前の道路などはディズニーが整備しているため、オリジナルデザインの交通案内板が使われている(撮影:小川裕夫)

2024年6月6日、東京ディズニーシーに新しいテーマポート「ファンタジースプリングス」が誕生した。

約3200億円の費用が投じられた新エリアは「魔法の泉が導くディズニーファンタジーの世界」をコンセプトとして、ディズニーリゾート最大の拡張計画と報じられている。

昨今では円安が追い風となり、外国人観光客数がコロナ前の水準へと戻った。外国人観光客は東京や京都をはじめ、千葉県浦安市に所在するディズニーリゾートにも多く押し寄せる。

本稿では、筆者が取材で得てきた「ディズニーが国内に誕生するまでの隠された前史」の数々を紹介するとともに、開業後にディズニーが地域に与えてきた影響、玄関口としての機能を果たすJR京葉線について考察したい。

我孫子市で計画された「幻のディズニーランド」

東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドは、年度ごとの来園者数をホームページで公表している。それによると、開園時の1983年度には約993万3000人の来園者を集めている。

当初から注目の施設だったが、開園前には「西洋文化を集めたようなディズニーランドは、日本の風土に合わない。必ず失敗に終わる」と世間から評されていた。

それでも昭和30年代ごろからは、多くの実業家によってディズニーの国内誘致がはじまる。しかし、本場アメリカでも先述のような懸念が広がり、ディズニー経営陣は登用への進出には慎重で、首を縦に振らなかった。

当時は多くの人物が国内誘致を考えていたため、ディズニー計画は無数に存在する。独りよがりな計画が珍しくなかったが、中には実現可能性が高い構想も見られた。

その1つが、千葉県北部にある手賀沼(てがぬま)の湖畔に誘致するプロジェクトだ。本プロジェクトは我孫子町(現・我孫子市)が発行する『広報あびこ』にも掲載されるほど、実現可能性が高いとされていた。

「広報あびこ」昭和36年1月1日号に掲載された、手賀沼ディズニーランドの計画図

誘致が計画されたのは、当時の柏市・我孫子町・沼南村(2005年に柏市と合併)にまたがるエリア。ほかの計画と区別する目的で、関係者の間では「手賀沼ディズニーランド」計画とも呼ばれている。

一時は水質汚濁で国内ワースト1位という不名誉な称号を得ていた手賀沼に、なぜディズニーの計画が浮上したのだろうか。現在の姿からは想像しづらいが、手賀沼の来歴を知ると不自然な話ではないことが見えてくる。

我孫子駅から徒歩数分でアクセスできる手賀沼。近年、水質は改善傾向にあるが、一時期は湖沼で全国ワーストワンの水質だった(撮影:小川裕夫)

手賀沼が注目されたきっかけは、1896年に日本鉄道(現・JR東日本)が我孫子駅を開設したこと。上野駅から1本の路線でつながり、東京近郊からのアクセス性が格段に向上した。

我孫子駅には手賀沼の水質情報が掲示されている(撮影:小川裕夫)

それ以降、都心部から通いやすい景勝地となった手賀沼は、人気の別荘地として開発されるようになる。

手賀沼ディズニーランド計画の頓挫

別荘地開発の端緒を切り開いたのは、日本柔道の父として知られる嘉納治五郎(かのうじごろう)だった。嘉納は我孫子に農園を開き、「嘉納後楽園」と命名する。

柔道の総本山「講道館」が東京都文京区後楽園に所在することを踏まえると、嘉納後楽園は文京区の地名に由来していると推察できる。

その後、嘉納の甥だった柳宗悦(やなぎむねよし)が手賀沼湖畔に転居。民芸運動の父と称され、美術家でもあった柳を慕うように、周辺には文人の志賀直哉や武者小路実篤などが邸宅や別邸を構えていった。

我孫子市に現存する、西洋史学者・村川堅固の別荘。村川は東京帝国大学でも教鞭をとった(PHOTO : Kamaneko / PIXTA)

当時は主に「白樺派」と呼ばれる文人・美術家が手賀沼湖畔に集まったがが、別荘地としての手賀沼を世間に広めたのは朝日新聞記者の杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)だ。

もともと手賀沼に別邸を所有していた杉村は、関東大震災で東京が壊滅的な被害を受けたため、それを機に手賀沼へと移住した。以降は手賀沼に関する記事を書き続け、この行動が全国区の別荘地へと押し上げることとなる。

しばらく静かな別荘地だった手賀沼では、戦後から新たな開発機運が高まる。当初は地域振興のために競艇場を作る予定だったが、沼自体を埋め立てる必要があったため頓挫。

その次に浮上したプロジェクトが、手賀沼ディズニーランドである。

手賀沼ディズニーランドを主導した川崎千春は京成電鉄専務取締役で、もともと沿線開発の一環でバラ園などの整備に注力していた。川崎は、バラの買いつけで渡米した際にディズニーと出会う。

ディズニーの思想に感銘を受けた川崎は、帰国後に国内誘致へと動きはじめる。それ以降、手賀沼でディズニーランドを建設しようとする動きが本格化した。

川崎を中心にした手賀沼ディズニーランド計画を遂行するため、新会社「全日本観光開発」が発足。前東京都知事の安井誠一郎を会長に迎え、東京都競馬会長だった米本卯吉(よねもとうきち)が社長に就任した。加えて、東武鉄道や後楽園スタヂアムなども出資する。

千葉県からの出資もあったが、当時は明らかに東京の政財界が主導するプロジェクトだった。ちなみに、当時の京成電鉄は東京都台東区に本社を構えている(現在は千葉県市川市)。

開発体制は整ったものの、手賀沼ディズニーランド計画は思うようには進まず中断。そのころ、川崎は千葉県の浦安沖にも関心を示していた。そして、浦安沖の埋立地計画が進んでいく。

「浦安ディズニー」を推し進めた「開発大明神」

浦安沖の埋め立ては、千葉県が推進する東京湾の開発計画と合致していた。千葉県の東京湾開発の端緒は、大正期にまで遡らなければ話が見えてこない。

関東大震災によって軍事力を分散する必要性が生じたことから、大正末期から昭和期にかけての千葉県は軍都として栄えはじめた。

軍都としての発展を継続させるべく、政府は1940年に東京湾臨海工業地帯計画を策定。同事業は工業地帯に軍需工場を集めることを意図していたが、戦争によって一時中断。

千葉市民や政財界が一丸となったこともあり、戦後には製造業に計画を変更しつつ工業地帯の計画規模が拡大された。

現在の千葉駅はJR線のほか、京成電鉄や千葉都市モノレールが発着するなど鉄道の要衝地でもある(撮影:小川裕夫)

1950年に柴田等(しばたひとし)が千葉県知事に就任すると、千葉市の埋立地に川崎製鉄(現JFEスチール)の工場が誘致される。これが京葉臨海工業地帯を形成する第一歩となった。

しかし、柴田は千葉県を農業県にする構想をもっていた。この構想は、東京の経済発展という恩恵にあやかろうとする、千葉県選出の国会議員との間に溝をつくることになる。

その影響で、柴田は4期目を目指した県知事選で対立候補を擁立されて落選。柴田に代わって千葉県知事を務めたのは、1955年に発足した日本住宅公団の初代総裁にも就任した加納久朗(かのうひさあきら)だ。

加納は東京湾を埋め立てて約2万坪にもおよぶ土地をつくり、そこに新しい首都を建設する「ネオ・トウキョウ」という壮大な計画をブチ上げたことがある。

また、東京の真ん中にある皇居で暮らす天皇陛下の健康面を考慮し、皇居を自然が多い多摩へと移転させて、空いた土地を有効活用すべきという主張もしていた。

高度経済成長期以降の千葉県では、21世紀に入るまで土地開発に注力する知事が選出されていた。加納久朗や友納武人、川上紀一、沼田武といった面々からは、開発に対する千葉県民の強い願望が窺える。

1963年から5期20年にわたって知事を務めた友納武人(とものうたけと)は、浦安沖の埋め立てや東京ディズニーランドの誘致、成田空港の開港など、千葉県の都市化政策に取り組んでいる。

高度経済成長や日本列島改造といった時代背景の後押しも受けて、三井不動産とタッグを組みながら都市開発に急進的に取り組んだ。

政策が都市開発に偏重していたことから、友納は「開発大明神」とも呼ばれていた。東京ディズニーランドを実現した立役者の1人でもあるが、開園までの歴史を俯瞰すると主演を務めたとまではいえない。

漁業関係者の姿勢変えた「とある事件」

友納が進めた浦安沖の埋め立ては、主要産業だった漁業の衰退につながるとして地元民から強い反発を受ける。同事業はこう着状態に陥ったが、ひょんなことから漁業関係者たちは容認することになる。

状況が変わったきっかけは、1958年に東京都江戸川区で起きた「黒い水事件」だった。

本州製紙(現・王子製紙)の江戸川工場から排出された廃液が江戸川をつたって、東京湾へと流出。江戸川河口から近い浦安沖の水質汚濁が深刻化したのである。

当時の日本は高度経済成長期であり、経済発展を優先するあまりに大気汚染や水質汚濁などの環境対策が後手に回っていた。

黒い水事件の現場となった江戸川では、東京都と千葉県が水質調査を実施。本州製紙は廃液による汚染を否定したが、そのことが漁業関係者の怒りに火をつけた。

千葉県市川から見た現在の江戸川(PHOTO : K@zuTa / PIXTA)

漁業関係者が実力行使をしたこともあり、最終的に本州製紙は廃液による水質汚濁を認める。江戸川工場の操業は停止に追い込まれ、廃液が東京湾に流出することはなくなった。

しかし、浦安沖の水質がもとに戻るわけではない。結果として、漁業関係者は漁業に見切りをつけることになり、浦安沖埋め立ての容認に転じた。

埋め立て事業の目途が立つと、京成電鉄は浦安へのディズニー誘致を目指すようになる。銀行からの融資が必要であったため、京成電鉄は懇意にしていた三井不動産代表の江戸英雄に協力を仰いだ。

しかし、2社体制では力関係による事業の停滞が懸念されるところ。そこでバランスをとるために朝日土地興業が加わり、3社による「オリエンタルランド」が設立されて盤石の体制が築かれた。

アメリカの本家ディズニーに対しては、ロイヤリティの支払いを提案。この仕組みであれば、仮に東京ディズニーランドの運営が失敗に終わっても本家の損失は少ない。

このような流れでディズニ―経営陣を口説き落とし、オリエンタルランドが同施設の運営を担うことになったのである。

「舞浜」の由来は「マイアミビーチ」ではない

1988年に開業した京葉線の舞浜駅は、東京ディズニーリゾートの玄関口として機能する。舞浜駅が開業するまでは、営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線浦安駅からバスでアクセスする経路が一般的だった。

ディズニーの玄関口となっている舞浜駅(撮影:小川裕夫)

駅名には「舞浜」という地名を採用しているが、開業前には浦安市による公募が行われている。1位の「舞浜駅」は282票、2位は「ディズニーランド駅」で276票、3位は「東京ディズニーランド駅」の190票だった。

舞浜駅は順位こそ1位だが、2位との票差はわずかしかない。そのうえ、2位と3位は冒頭に「東京」がつくかつかないかの違いだけで、4位以下もディズニー関連の駅名が占めていた。

つまり、地元住民はディズニーに由来する駅名を望んでいたのだ。特に遠方からの来園者には分かりやすいため、JR東日本も「東京ディズニーランド駅」の名称を容認していた。

そんな状況とは裏腹に、アメリカのディズニー側からは反対の声があがる。

舞浜駅前には、オリエンタルランドの本社も立地(撮影:小川裕夫)

ディズニーが反対した理由は、付近に立地する無関係の商業施設名に「ディズニーランド駅前店」とつけられる恐れがあったためだ。特に風俗店やパチンコ店などに名称を使われると、「夢と魔法の国」のイメージが壊されてしまう。

許容される施設もあると思われるが、コンビニやファミレスがOKで、ほかの店舗はNGというわけにはいかない。トラブルを未然に防止する意味合いもあり、駅名からディズニー関連の名称は外された。

こうしてディズニーランド駅の誕生は幻に終わり、舞浜駅の名称が採用されることになる。

では、そもそも「舞浜」という地名はどこから誕生したのだろうか。もとは埋立地であったため、古くから存在した地名ではない。舞浜の由来を巡っては、長らく都市伝説が流布されていた。

最有力説の1つが、マイアミビーチ由来説と呼ばれるもの。本家ディズニーが所在するマイアミの「マイ(舞)」と、西海岸を想起させる「ビーチ(浜)」を合わせて舞浜にしたという説である。

浦安市の市史やオリエンタルランドの刊行物にも、マイアミビーチ由来説が堂々と記載されていた。マイアミビーチ由来説を偽史と疑う人はいないだろう。その影響で、マイアミビーチ由来説はテレビや雑誌からも取りあげられるようになり、県外にも噂が広がっていく。

しかし、初代浦安市長の熊川好生(くまかわよしお)が「浦安の舞から地名をとった」と説明する議会議事録が、近年になって発見された。浦安の舞とは、1940年の皇紀2600年奉祝臨時祭で考案された神楽舞のこと。

ちなみに「浦安」はもともと日本の雅称であり、1909年に誕生した浦安町もその雅称にちなんでいる。

ディズニーランドは開園直後から大盛況

浦安市は公式にマイアミビーチ説を撤回し、「浦安の舞説」を正式な由縁と改めた。じつはそれとは別に、地名が舞浜になるまでの過程には隠れた逸話がある。

熊川は埋立地の造成が進んでいるときに、地名を考案するようにオリエンタルランド側に打診した。オリエンタルランドは社内公募と検討を重ねて、地名を「四季(しき)」に内定する。

しかし、同じ読み方の「死期」が連想されることから却下され、最終的には「舞浜」と名づけられた。こうした紆余曲折を経て、ディズニーランドは開園に漕ぎつける。

ディズニーの国内誘致に携わったキャストは多いため、その立役者を1人に絞ることは難しい。あえて主役を挙げるとしたら、京成電鉄の川崎千春と、最後の浦安町長でもある熊川好生の2人だろう。

ちなみに、冒頭でも触れた「西洋文化を集めたようなディズニーランドは、日本の風土に合わない。必ず失敗に終わる」という事前予測は覆され、開園直後からディズニーは活況を呈する。

その後も堅調に人気を維持し、着実に来園者を増やしていった。

東京ディズニーリゾートのサインモニュメント。この前で記念撮影をする人も少なくない(撮影:小川裕夫)

舞浜駅も開業当初から多くの来園者に利用された。開業日が12月1日だったことが影響し、1988年度の平均乗車人員(1日)は約1万3000人に留まったが、年を経るごとにディズニーの玄関口として認知されていく。

利用者は増加し、1990年度の平均乗車人員は約3万1000人、2000年度には約4万9000人、2010年度には6万4000人を記録。2001年には東京ディズニーシーが開園した影響で、来園者数も2200万人を突破した。

同時期における舞浜駅の平均乗車人員は、約5万9000人となっている。

舞浜駅の利用者は、大半がディズニーリゾートの来園者で占められる。閉園の時間帯に危険なほど混雑するホームの状況は、2010年ごろから問題視されはじめた。

舞浜駅は1面2線という構造のため、上り線(東京駅方面)と下り線(蘇我駅方面)の利用者が同じホームで電車を待つ。JR東日本は危険な状態を放置するわけにはいかず、安全対策を講じることになった。

混雑を解消するには、2面2線のホームにするような対策が考えられる。しかし、ホームの増設には莫大な費用がかかるうえに、そのための空間確保が物理的に難しい。

なにより、混雑する時間帯はディズニーの閉園時間に限られるため、2面2線への改修はオーバースペックになりかねなかった。JR東日本としては、安全対策の必要性は認識しつつも、過剰投資は避けたかったことだろう。

都市構造にまで影響を与えるディズニー

JR東日本が出した最適解は、1面2線のままホームを延長させることだ。

従来のホームは約200メートルだったが、約300メートルまで延ばす工事を実施。結果として、上り電車と下り電車の停車位置をずらすことが可能になり、電車を待つ乗客の位置が分散された。

その一方で、新型コロナウイルスが猛威をふるった2020年度は来園者数が約756万人まで減少。舞浜駅の平均乗車人員も、1日あたり約3万8000人まで落ち込んだ。

しかし、その後は順調に客足が戻り、2023年度の来園者数は約2750万人を記録。ディズニーリゾートは以前の輝きを取り戻しつつあり、舞浜駅の平均乗車人員も約7万6000人まで回復した。

舞浜駅前からは、東京ディズニーリゾートを周回する舞浜リゾートラインも発着している(撮影:小川裕夫)

他方、入園料については高騰が続いている。開園当初の入場料は、東京ディズニーランドが大人1名で3900円、東京ディズニーシー開園時の2001年が5500円と、時代の推移とともに上昇する。

2021年からは日によって入園料が変動する「ダイナミックプライシング」が導入されており、2024年現在の最高価格は1万900円となる。新エリアのファンタジースプリングスに至っては、最安値でも大人1人で2万2900円だ。

改めて整理すると、一般庶民が気軽に楽しめるような価格帯とはいえない。

人件費や物価の上昇で入園料が上がることは自然な成り行きだが、労働者の賃金は「失われた30年」の影響で停滞したままだ。そのため、ディズニーは富裕層もしくは訪日外国人観光客を当て込んだテーマパークになったとの批判も出ている。

ディズニーリゾートは開園から間もなく半世紀を迎え、その間に日本のレジャーは大きく変わった。ディズニー開園前から日本にあった遊園地もテーマパークの要素を取り入れたレジャー施設になり、むしろ日本を感じさせない。

それまでの遊園地はあくまでも休日を過ごすための施設で、それは日常生活の延長線上にあった。ディズニーは非日常を体験するための施設で、普段の生活とは完全に切り離されている。

そして、ディズニーの開園前と後では日本のレジャーにもそうした変化を見て取れる。

我々のライフスタイルが変化した現在でも、庶民にとってディズニーリゾートの存在感は大きい。舞浜駅で2020年4月からホーム延伸が行われたことも、存在の強さを裏づける出来事だ。

もはやディズニーは遊園地やテーマパークという枠を超え、日本の文化や産業、果ては都市構造やライフスタイルにも影響を与える存在になっている。

(小川裕夫)