
2015年ごろの土手の様子
川崎には、取材をするためによく訪れていた。
特に多摩川の河川敷(六郷土手)をよく取材していたが、川の北側が東京の大田区、南側が川崎市だった。
北と南は仲が悪く、「川崎のやつらはガラが悪い」「東京のやつはお高く止まっている」などと悪口を耳にした。川を挟んで南北で喧嘩するなんて「ミニ朝鮮半島のようだ」と思ったものだ。
戦後から長らく、川崎にはホームレスが多かった。「労働者のまち」として知られてきた川崎だが、この土手にもホームレスハウスがずらりと並んでいたのだ。
ホームレスの人々にとっては、川崎側に住むほうが楽だったようだ。彼らの多くはアルミ缶を集めて換金していたが、アルミ缶を買ってくれる業者が川崎にあったからだ。
東京側の人は橋を渡らなければならない。これがクセモノで、橋では頻繁に警察官が取締りをしていた。乗っている自転車が盗難自転車ではないのかをチェックされるのだ。
ホームレスは実際に盗難自転車を乗っている人が多かったし、盗難自転車ではないにしろめんどくさい。だから、金属を売る人は川崎側に住んだほうが良い、と言われていた。
川崎のホームレスはいま
以前は、多摩川の近くにある川崎競馬場の周りにも、ズラリとホームレスハウスが並んでいた。「競馬場でお金をすった人間が、そのままホームレスになって競馬場の周りに住んでいるんだよ」と訳知り顔で言われたこともある。もちろんそこまで単純な理由ではないと思う。

競馬場周辺。現在はホームレス小屋は撤去されている
結構前の話だが、川崎市がホームレスを一晩だけ受け入れる施設(シェルター)を作った際は、社会問題になってテレビニュースでも取り上げられていた。実際に、僕も雑誌の取材で、話を聞きに行った。
スタッフに「取材で来たのですが……」と言うと、渋い顔をしながらも、内部を案内してくれて、話も聞かせてくれた。
もともとあった工場の施設をほとんど変えず、中にベッドを並べていた。
利用者の声を聞くと、「当日の夜は受け入れてくれない」「早朝に追い出される」などと言っていて、評判はあまりよくなかった。ずいぶん前に、その施設はしれっとなくなってしまっていた。
現在も、川崎市は「ホームレス自立支援計画」を作っていて、ホームレスの生活の安定をはかる活動をしている。「生活づくり支援ホーム」という、一時的に受け入れてくれるシェルター的な施設もあるらしい。
僕が取材をはじめた20数年前に比べると、野宿を強いられる人は著しく数を減らしているようだ。
11人が死亡した大火災
そんな川崎にはドヤ街もある。
「ドヤ」とは、宿の隠語(ヤドを反対に読んでドヤ)だ。主に労働者向けの簡易宿泊施設が並ぶ街のことを指す。
大阪の西成、東京の山谷、横浜の寿町が有名で、川崎の日進町や貝塚はあまり知られていない。
規模はあまり大きくないものの、川崎の簡易宿泊施設もズラリと並んで、健在だった。ただ住人に話を聞いても、ドヤ街という意識はあまりなかったようだ。
川崎のドヤには一度泊まったことがあった。値段や部屋の状態は問題なかったのだが、ドヤの管理人が、ドヤの住人の老人に対して、大音量で罵る声が延々聞こえてきた。
「また、オシッコもらしたのか!!」
「すみません、すみません」
心底うんざりして、それ以来泊まらなかった。
そんな川崎のドヤが有名になったのは、2015年の火事だ。5月17日未明、川崎市日進町にある簡易宿泊施設「吉田屋」から出火して、隣の、同じく簡宿である「よしの」に燃え移り、11人が死亡、17人が重軽傷を負った事件である。

当時の火事の現場(2015年撮影)
宿といいつつ、ここにいた多くの住人は、アパートのようにここで生活して、生活保護を受けていた。
当時現場を取材したのだが、その時点ではまだほとんどの人の身元が分かっていなかった。全員の身元が分かるには3週間がかかったという。
当時、まだ焦げ臭いにおいのする現場に足を運んだ。焼け落ちた建物の周りを人が取り囲んでいた。新しいマンションに囲まれるように建っていたドヤで、となりのマンションには黒い煤がついていた。消防はもちろん警察、テレビ局などの取材者もたくさん現場にいた。
現場近くで火事場を見ていたおじいさんに話しかけると、吉田屋に以前泊まったことがあるという。
「ベニヤ板で出来たような家だから燃えて当然だよ。むしろ、よく今まで燃えなかったなって感じ。役所は昔から、ドヤを潰したいと思っていたんだ。正直な話。今回、燃えてちょうどよかったと思ってるんじゃないか?」
おじいさんは、そんなふうに、含むような言い方をしていた。
僕は、雑誌社に依頼されて、現場に行ってドヤの人たちに話を聞いたのだが、苦戦した。すでにテレビ局が来て取材していたので、「雑誌社なんて、今更来ても話せませんね」みたいな、変な感じになっていた。
これはホームレス取材でもよくあって、テレビ局が来た後は、場が荒れる。
困っていたら知り合いのNHKのプロデューサーがいて、集めた資料を見せてもらった。さすがNHKで、事件直後なのに、すでにほとんどのドヤから聞き込みを終えて分厚い資料を作っていた。
現場からはガソリンとおぼしき成分が見つかり、放火の可能性ありと言われていた。
他にも「直前に言い争う声が聞こえた」「金の貸し借りで追い出された人がいた」など、不穏な噂が広がっていた。
実際、火災の原因は放火と報告されたが、いまだに犯人は捕まっていない。
「こういう風景を残してほしい」と思う一方で…
今年の2月ごろ、久しぶりに現場にドヤ街周辺に足を運んでみた。
火事になったドヤ周辺はもちろん火事の痕跡はまったくなく、開発も進んでいた。
ドヤは数は減らしていたが、今もまだ営業を続けている場所も多かった。「冷暖房完備 テレビ付」という看板がいまだにあるところを見つけると、キュンと懐かしくなる。値段も1泊1800~1900円あたりと手頃だ。

中には、インバウンド客を相手にしているようなドヤもあったが、さほど多くはなかった。昔ながらの雰囲気が保たれているので、好事家の1人としてはホッとした。
川崎のドヤでは、建築基準法違反の建物、非常階段などが設置されていない建物も多い。
ドヤやスラム街の写真を撮ったりする好事家は、「こういう風景がいい! 残ってほしい!」と言うが(僕も含めて)…。いざ災害が起こるとやはり弱い。ドヤは多くの人が寝泊まりしている場合も多く、死者もたくさん出る。
スラム街やドヤ街を取材していると、いつも「昔ながらの風景」と「古い施設の危険性」のトレードオフに突き当たる。
また、よその場所に住んでいる人と、地元の人の感覚の差もある。旅行者が、「この素朴な感覚がいいよね~」などと言っていたって、現地の人は、コンビニもスタバも欲しい。危険な廃墟はなくなってほしい。当たり前だ。
だから好事家は現在の景色、変化を受け入れなければならない。
……ただ、妥協案として、そんな風景を取り壊す前に、長崎県の軍艦島で行われているような大規模な3Dスキャンを行ってくれないかな~? とも思う。資料としての価値はもちろん、ゲーム会社や映画会社なども欲しがるデータだと思うんですけど…。
(村田らむ)
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