窓を覆うように茂った敷地内の木々(撮影:江波瞬)

首都圏新都市鉄道「つくばエクスプレス」の終点、つくば駅に巨大な「廃団地群」があるのをご存じだろうか?  

かなり広大な団地群なのだが、今回歩いたのはその一部。団地群をぐるりと一周すると、約1キロだ。封鎖されて、敷地内に立ち入りができなくなっている棟もかなりの数ある。

この廃団地群は、いったいどんな経緯で誕生したのか。現地の様子をリポートしつつ、その背景に迫った。

「廃団地群」要する研究学園都市

つくばといえば「研究学園都市」という言葉がまず頭に浮かぶ。

1960年代、高度成長の真っ只中にあった日本では、人口が急増し、過密化が問題となっていた首都圏から、国の科学研究機関などを、だだっ広いつくばに移転させて、ここを技術、教育、研究の拠点にしようとの計画を立てた。

つくば市のホームページによると、「筑波研究学園都市は、東京等の国の試験研究機関等を計画的に移転することにより東京の過密緩和を図るとともに、高水準の研究と教育を行うための拠点を形成することを目的に国家プロジェクトとして建設されました」とある。

さらに「つくばからノーベル賞受賞者も生まれるなど、研究機関等の集積をいかした世界的な科学技術拠点都市としての実績を着実に積み重ね、現在ではおよそ2万人の研究従事者を有する我が国最大のサイエンスシティとなっています」と胸を張る。

通りに面した団地入口。針金と木柵で封鎖されているが、隙間は多い(撮影:江波瞬)

しかし、その割には駅近くの廃団地の風景が気になる。ここがなぜ、廃団地となってしまったのかを語る前に、まずはその風景を見ていこう。

紅葉した木々の向こうに見える廃団地

つくば駅から北東方向に少し歩くと、駅を背に左側に、今回訪れた廃団地が広がる。県道24号線から見上げればその威容がうかがえる。

背の高い生け垣の向こうには、紅葉した木々の姿も見ることができる。かつては、ここに住む人たちの目を楽しませたのだろう。

しかし、現在は黄色や燃えるような赤に紅葉した木々は、秋のうら寂しさを強調しているようだ。

通りと廃団地を分ける生け垣の一部にはここが国有地であることを示す古びた看板が立てられていた。赤い文字で、「売地」と書かれているが、いつになったら買い手が現れるのやら……。

ここが国有地であることを示す立て看板(撮影:江波瞬)

茂みの内側を覗くと、かつては駐車場などに使われていたであろうスペースが広がるが、もちろん駐車する車は皆無だ。むき出しのコンクリートに、枯れ草がはびこり、もの寂しさが漂う。

持ち主のいなくなった建物の入口は、頑丈そうな板で塞がれてはいるが、出入りができるように、一部に扉が作られている。南京錠でしっかり施錠されており、部外者の出入りはできない。

水場の周りには、どこかの柵に使われていたと思われるスチール製の廃材がそのまま捨て置かれていた。

1階部分は板が打ち付けられているが、2階から上はそのまま(撮影:江波瞬)

封鎖された敷地内には、ブランコや滑り台を備えた公園があった。目を閉じれば、そこで遊ぶ子どもたちの声が聞こえてきそうだ。

公園は、団地の建物に取り囲まれるような場所に位置している。ベランダから呼びかければ、遊んでいる子どもたちに声が届いただろう。

「そろそろ帰ってきなさい」

「はーい」

そんな親子の会話が幾度となく交わされたに違いない。しかし、今はカサカサと枯れ葉が舞う、乾いた音がするばかりだ。

広大な学園都市の移動手段として、自転車は欠かせないアイテムだ。敷地内には屋根付きの自転車置き場がそこかしこに配置されている。しかし、もちろんこれも、今は使う者はいない。

かつての駐輪場。今は廃材が積み上げられている(撮影:江波瞬)

封鎖されているのだから当然と言えば当然だが、自転車ではなく、伐採された老木が積み上げられている光景を見ると、時の流れの残酷さを感じる。

建物の1階は、入口もベランダ側の窓も、コンパネ材で頑丈に閉じられている。しかし、2階から上の窓はそのままだ。2階にまでよじ登って侵入する者など、想定していないのだろう。

良くない発想だが、子どもの頃はいたずら好きだった筆者などは、2階の窓に挑戦していたかもしれない。ケガ人が出る恐れはないのだろうか。

そんな心配など、よそ者の余計なお世話だろうし、実際には安全に運用されているのかもしれない。

紅葉した木々に包まれた廃マンション。見方によっては趣がある(撮影:江波瞬)

街の中心部にある廃団地は、駅に向かう近道でもあるようだ。ど真ん中の小路は、今でも普通に使われており、封鎖された場所を身近に感じることができる。

赤レンガが敷き詰められた通りは、落ち積もった枯れ葉と相まって、実に美しい。これが、廃団地の一角とはとても思えないくらいだ。

所々壊れてはいるが、赤レンガの素敵な小路(撮影:江波瞬)

そもそもなぜ廃団地に?

筑波研究学園都市は、1963年に建設が決定され、国主導による大規模な街づくりが行われてきた。国の威信をかけたとも言えるこの事業により、この地特有の景観が誕生した。

筑波研究学園都市のテーマは大きく2つ。

・科学技術の振興と高等教育の充実
・国等の試験研究・教育機関の計画的な移転による首都東京の過密対策

この2つのテーマに沿って計画・建設されたため、多くの研究・教育機関が移転された。そして、そこで働く研究者や、その家族のために、約8000戸の公務員宿舎が建設されたのである。

しかし、公務員宿舎の入居率は低下の一途を辿った。

建てられてから長く経過し、老朽化が進んだことで、同じつくば地区で戸建てやマンションの持ち家を手に入れて、そちらに移り住む人も増えた。

また、つくばエクスプレスが開通し、それまでよりも遠隔地からの通勤が可能になった。これによって公務員団地の価値が相対的に低下したことなど、様々な要因が重なって空き家が増えた。

そうした事情を踏まえ、2005年に国家公務員宿舎の削減が開始されたのである。今回紹介した廃団地の多くは、その成れの果てということだ。

ただし、同団地は8000戸という規模である。安易に削減するだけでは、地域に負の影響を与えかねない。そうした考えのもと、削減計画を『都市再生』として位置づけ、2013年に『つくば中心市街地再生推進会議』を設置して新たなまちづくりを進めている。

以上のような背景があるものの、地元の住民がこんな話をしてくれた。

「宿舎だからさ、安く住めるんですよ。あんな立派な団地だろ、公務員を優遇しすぎている。みたいな声もだいぶあったみたいですね」

空き家が増えた理由はそうしたところにもあるのかもしれない。

「筑波大学は校舎は立派だけど、まわりになんにもないから、やることがない。だから同棲する学生が多いらしいよ」

1973年に開学してからしばらくは、はそんなふうに言われていたらしい。その後、既述のように、国の威信をかけた開発が行われたのだが、今はまた廃団地が立ち並ぶ街となってしまった。

団地を閉鎖して、新たな魅力ある街を作るのだと計画は謳うが、それがどこまで実現できるのか、これからが正念場だ。

(江波瞬)