多摩美術大学(PHOTO dekoの風 / PIXTA)

「最近、日本の美大を目指す中国人留学生がとても増えているんですよ」

私がこんな話を耳にしたのは今から2年半前の2022年のこと。ある在日中国人から教えてもらい、22年11月に取材を開始した。

いま、多くの中国人向け予備校が美大や音大の受験コースを作っている。中国人留学生が増加している現状や背景については以前の記事でも触れた通りだが、中でも美大・音大を目指す人が増えているのはなぜなのだろうか?

中国人留学生たちへの取材を通して見聞きしたことを本稿に記していこう。

美大・音大の競争率が高すぎる中国

たずねたのは東京・池袋にある千代田国際語学院。同校は日本語学校のほか、日本の大学受験指導も行っている。

同校の母体、千代田教育グループ会長の栗田秀子氏は、「08年頃から日本の大学受験対策を希望する留学生が増え始め、14年頃から美術やアニメを学びたいと希望する学生が増えたため、美術専門のコースを設置しました」という。

同校の壁には、日本の大学に合格した留学生の名前と大学名が書かれたリストがズラリと並んでいる。そこには「東京大学」「早稲田大学」などと並び、日本の有名美大の名前も多数あった。

栗田氏によると、中国は美術大学や音楽大学の数が少なく入学が困難で狭き門であること、日本の美大や音大のレベルが非常に高いことが、美大・音大進学希望者増加の背景にあるという。

現在、中国人向け予備校の大手、行知学園や名校志向など複数の学校に美大受験コースが設置されており、他に音大受験コースを設けているところもある。

日本では、春節の時期に東京大学のキャンパスを見学する中国人が増えているなどのニュースが報道され、東京大学や京都大学、私立だと早稲田大学がとくに人気の大学として知られているが、数年前から美大・音大も人気となっている。

武蔵野美術大学(PHOTO: route134 / PIXTA)

日本の美大だと、東京都だけでも東京藝術大学、武蔵野美術大学、多摩美術大学など5校以上あり、地方の公立や私立の美術大学、一般大学の美術系学部なども含めると50校以上もある。

一方、中国の美大には最も有名な中央美術学院を始め、中国美術学院、広州美術学院、天津美術学院、魯迅美術学院などがあるが、中国全土を合わせても10校程度しかない(中国語の「学院」は単科大学を指す)。

いずれも定員数が少なく、最も有名な中央美術学院は全学生合わせて5000人弱しかいない。一般的な中国の大学は3万人以上の学部生がいるため、いかに美大の定員が少ないかがわかる。

その上、中国ではほとんどの大学が国立のため、美術系科目以外に学科の点数も重視され、競争率は非常に高い。

音大も同様だ。日本には音楽大学、一般大学の音楽学部など合わせて30校以上あるが、中国で有名な音大といえば、中央音楽学院、上海音楽学院、南京芸術学院、中央戯曲学院、武漢音楽学院などで、こちらも10校ほどしかない。

総合大学の中に音楽学部を設置しているところもあるが、レベルが高いとは言えない。最も有名な中央音楽学院の学部生は2000人足らずという少なさだ。

日本の芸術家は中国人の「憧れ」

このような定員数の事情に加え、全体として日本の美大・音大は中国よりレベルが高いこと、指導者の数が多く層が厚いことも魅力となっている。

前述の千代田国際語学院の美術コースで講師を務めるある女性は、中国の美大を卒業後、都内の美大の修士課程に進学した。

修了後、アーティストとして活躍している彼女は「日本は宮崎駿監督が生まれた国なので、幼い頃から興味がありました。日本でもっと学びたい、いろいろなアーティストの刺激を受けて自分の視野を広げたいという思いで来日しました」といい、次のように語る。

「中国では、どんなにすばらしい才能があっても、環境に恵まれないなどの理由で美大に合格できない人が大勢います。日本でもそうでしょうが、中国の厳しさは比べものになりません」

また、中国で日本の美大のレベルが高いという評判がすでに広まっていることも、美大の受験希望者増加と関係がある。

ACG(アニメ、漫画、ゲーム)やデザインで有名だと言われているのは京都精華大学だ。とくにマンガ学部が有名で、同学部にはマンガ学科とアニメーション学科があり、現役の漫画家やクリエーター、デザイナーが多数在籍して、学生たちに教えている。

京都精華大学(PHOTO:とんこりり / PIXTA)

中国人が半数を占めるゼミもあり、以前取材したゼミは全12人のうち中国人5人、日本人6人、韓国人1人だった。

京都精華大学を卒業したある中国人は次のように語っていた。

「現役のクリエーターが大学の教授もつとめており、彼らから直接指導してもらえるのが京都精華大学の魅力で、そういう大学があるのは日本だけだと思います。世界的にも日本の美大は有名だから、日本で学びたいという中国の若者はあとを絶たないのです」

前述の千代田国際語学院の別の講師も「日本の芸術家は中国人にとって憧れ。上野美術学校(現在の東京藝術大学)に通った中国の有名な芸術家、李叔同(1880~1942年)を始め、多くの芸術家が日本留学経験者です。そうした事情が、中国の若者が日本で美術を学びたい動機のひとつになっていると思います」と語る。

中国では現在も、日本の芸術家の知名度は抜群に高い。

美術作家の奈良美智氏、芸術家の草間彌生氏、現代美術家の村上隆氏、写真家の蜷川実花氏などのほか、映画監督の宮崎駿氏、新海誠氏などもリスペクトされている。

PHOTO:SeventyFour / PIXTA

音楽大学についても同様のことが言える。日本は中国より早くクラシック音楽が広まり、ピアノなどの音楽教育も昭和30~40年代(1950~1970年代)には全国各地で習う人が増加した。

日本の場合、必ずしも音大を目指すわけではなく、書道やソロバンなどと同じく「習い事」のひとつとしてピアノを習う子どもが増加。その一部が音大を目指した。

一方、中国では1966年から文化大革命が始まり、クラシック音楽は否定された時期が長かった。2010年代になり、経済的に豊かになったことや英才教育の一環として、大都市の中間層以上の家庭で子どもにクラシック音楽を学ばせる人が増えた。

中国では、「習い事」としてピアノを学ばせる保護者もいたが、高校や大学の入試の際にピアノやヴァイオリンなどの演奏が優れていれば加点され、重点高校や重点大学に合格しやすくなるという制度があったことも、子どもに音楽を学ばせる動機となった。

しかし、2021年から始まった格差是正のための共同富裕政策により、そうした入試制度が廃止となったことから、ピアノやヴァイオリンを習う人は激減した。もし音大を目指すなら、高額な費用を払って特別なレッスンをする必要がある。

以前の記事で紹介した都内の音大に留学中の中国人が話していたが、実技とソルフェージュ(音大受験に必須の基礎学習)の授業を合わせて、月に最低でも6万円はかかる。

むろん、日本でも音大の受験には特別レッスンが必要だが、中国は音大の数が少ないだけに、合格できる確率は日本より低い。費用をかけるからには、より合格しやすい日本の音大を選びたいという意図もあるだろう。

競争率の低い日本でチャンスを掴む

また、中国では音大の教授や関係者との「コネ」が、合格する上で重要な要素になっていると言われている。

世界的な中国人ピアニスト、ラン・ランの『奇跡のピアニスト 郎朗自伝』(WAVE出版、2008年刊)を読むと、中央音楽学院の教授のレッスンを受けるため、9歳のときに父親と2人で東北部の瀋陽から600キロメートル以上離れた北京に引っ越したエピソードが書かれている。

そこでは、教授や大学との特別なコネがなく、貧しい学生だったラン・ランが音大に合格することが、いかに難しかったかが書かれていた。

彼の場合はその後アメリカに留学したことにより世界デビューできたが、そこまではいかずとも、中国を飛び出すことによって人生が開けると考えている中国人は現在も非常に多い。

日本には、中国人のプロの二胡(民族楽器)奏者が数十人いるが、彼らもまた、中国から飛び出したことにより、日本でチャンスを掴んだといえる。

北京市内のある学生は、高校の成績が北京市内の上位校の一角である北京師範大学(日本でいえば筑波大学などに近いイメージ)に届かないくらいだったが、実力よりも偏差値が上の早稲田大学を受験して合格したという話を以前聞いたことがある。

ある日本の教育関係者によると「同じくらいの学力であれば、母数が多くて競争率が高い中国よりも、日本など海外に行ったほうが、ワンランク上の大学に進学できる可能性が高いし、付加価値がつく」という。

人口が中国の10分の1以下の日本のほうが、中国より競争率は低い。そのような面からも、日本の美大・音大は中国人にとって魅力的なのだといえるだろう。

中島恵