
PHOTO:うぃき / PIXTA(画像はイメージ)
皆さんお久しぶりです。山本一郎です。
集合住宅(アパート)投資を真面目に手がけると大変なことになりますよね。ただ、カネはあったらあったで大変なんだという経験もしました。
今回は、そんな私が初めて手にした物件の話を2回に分けて書きたいなと思っているのですが……お付き合いいただけますでしょうか。
向こうからやってきた不動産投資
冒頭から私事で恐縮ですが、昨年2月に実父が92歳で亡くなり、結果的に、家業でもあった産業廃棄物業界から4月で足を洗いました。27歳から51歳までの四半世紀、思い返すと酷い思い出ばっかりですね。でもいろんな人の助けがあって、何とかなった感じです。
その産廃事業で操業していた工場の1つは、いまクルド人問題で騒ぎになっている埼玉県川口市本蓮の工場地帯のど真ん中にありました。
もともとは、戦後のどさくさに紛れて山本家の誰かがよく分からん手法で入手した土地で、それを親父がガメて化学会社を営み、やがてオイルショックで乾坤一擲、産業廃棄物業界に転業しました。
何の愛着もないけど、川口市は子どものころから毎週のように親父に連れられてきた地です。

PHOTO:遥 智美 / PIXTA(画像はイメージ)
そんな幼少時代から20数年が経ち、立派な中小企業の子倅となった私は、親から押し付けられた家業であるこの産廃事業と、ずっとやりたい仕事だったゲーム開発などコンテンツ制作や投資事業の2足の草鞋を履いて仕事をしていました。20代の終わりから30代の荒んだ独身人生です。
不動産などほとんど触ってこなかった私に、突如物件が手元に来る話が舞い込んで来てしまったのは、そんな産廃事業をおっぱじめてようやく1年ぐらい経ち、なんとなく分かってきたかなぐらいのころ。
産廃業の取引先が派手に倒産しそうになり、6000万ぐらいの売掛が吹っ飛ぶかという話になりまして。大変だ。1円でも多く回収しろ。取れる物は取らないと大変だ、と社員総出で慌てて乗り込んで、その債権回収の際に担保に入っていた物件もまとめて引き取らないといけなくなったからでした(子会社にしていた不動産管理会社の株式の譲渡の形で)。
いま思うと、向こうからやってくる不動産投資にいい話なんてない、やめておけばよかったと思います。もはや、不動産なんて怖ろしいんだ、アパート投資なんて人間がぶっ壊れた奴しかやらないもんだと確信しています。
が、当時は「何でもいいから他に取られる前に債権回収したい」という気持ちがあり、自分も大学生時代、親父の会社が倒産しかかった時に、それまで柔和な笑顔で接してきていた取引先が鬼の形相でオフィスの備品まで持ち去ろうとしていたのを鮮烈に記憶したために、分からないなりに「甘くしていたらやられる」と思っていました。
そこで、彼らが子会社で運営していたボロアパート群を譲ってくれるというので引き受けてしまいまして。
初めての経験となる不動産投資は、欲に駆られてというよりは、必要に迫られて進出することになったのです。
埃舞う川口の工業地帯で
JR川口駅前から川口市本蓮まではかなり距離があり、車移動が必須でした。当時は、人類未踏の腐海に住まう数多の埼玉県民を「東京のスラム」と名高い足立区に送り込む日暮里・舎人ライナーが未開通で、駅までうっかり歩くことになってしまうと、何が起きるか分かりません。
初めて物件を観に行ったときのことは鮮烈に覚えていています。築35年ほどの2階建て10室の2棟が、向かい合うように建っていました。中庭みたいなところにせり出すように、少し広い集会場のようなものもある。
お、割と立派じゃん。
その時はそう感じたのですが、すぐ隣の区域には川口新郷工業団地があり、化学薬品をビシバシに使う窯業(セラミックを作るためにケイ砂、石灰岩などにベンゼンとかベンゼンとかベンゼンとか素敵な物質を大量に使う)の皆さんがご操業されていたり、わずか1ブロック先にある廃自動車ヤードでは、古タイヤや鉄くずをガッコンガッコンと心地よい大音量で粉砕し、野山積みでドジャーーッという聴き慣れることのない爆音のようなせせらぎを近隣に提供したりしていました。

PHOTO:キャプテンフック / PIXTA(画像はイメージ)
何が嫌だって、この一帯は当時本当に埃が凄かったんですよね。住民のお年寄りたちが、ずっと湿っぽい咳をしながら通りかかっていたのが印象的でした。
明らかに過積載の大型ダンプは往来するし、謎の家電リサイクル専門の回収・搬送業者は、ちゃんと免許を持っていなさそうな中間処理業者にひっきりなしに荷物をせっせと運び込んでいました。
マニフェストなどお構いなし。どう見ても全部違法です、本当にありがとうございました。当時はそれが許されていた、私たちの川口市。
その少し後、北朝鮮系の解体業者が何かやらかして逮捕された際には、クソ深夜に埼玉県警によるパトカーサイレンのコンツェルトも拝聴でき、とても素敵な住環境でした。
それでも集合住宅は(契約上は)満室でしたし、貸し住戸の半分以上は近所の会社が社宅として借り上げているとの触れ込みだったため、これは(帳簿上は)安全な投資物件だろうと思いました。実際に稼働している物件であることは分かっていて、カーテンスキームや満室詐欺ではなさそうでしたから。
日暮里・舎人ライナーが開通すれば、便利になって少しは物件価格も上昇するだろうということで、物件用に新規に借り入れを起こし、溜まっていた修繕を地元の顔なじみの工務店に依頼しました。
あとは黙っていても毎月チャリンチャリンで安定収入。貸し倒れを処理するのは利益処分の意味でもまあいいかと、そんなふうに考えていた時期が私にもありました。
今なら、どう考えてもやめておけばよかったと思うんです。自主管理の不動産投資なんて。
全世帯が「ワケあり」
翌月、月曜の朝っぱらに、弊社の経理をしていた子が血相を変えて私のところに飛んできました。「買収した物件の賃借人から入金がありません」との急報です。
そうか、何人かさっそく滞納しているのだなと思ったら、「ほぼ全戸が滞納」というとんでもない事態だと知って、言葉を失いました。どういうことなんだこれ。
仕方なく、1軒1軒訪問して事情を伺いました。昼間不在の世帯は時間をずらして夜も訪問しました。
そうしたら全住民が、日雇いのような不安定な仕事だとか、会社が倒産したあと再就職できなくてハローワークに行っているとか、働いていたけど病気でクビになりわずかな蓄えを潰して子どもを育てているとか、そういうワケありのご家庭であることが判明したのです。

PHOTO:tarousite / PIXTA(画像はイメージ)
失業した40歳そこそこの黒シャツおじさんとおばあさんが狭いなか同居しているという部屋もあるようで、カオスにもほどがある。
ここは半分以上が社宅だったはずでは……聞いている話と全然違う。
当時、最寄りのJR川口駅まで徒歩15分以上、陸の孤島にして文明未開の地であった本蓮には、集合住宅で高いお家賃を頂戴するために必要な「土地のパワー」は期待できません。
このような不便なところにある安い住戸に入るのは、生まれ育った地で就職し、近くに親戚もいるような世帯か、行く当てもなく流れ流れて住み込みの微妙な仕事に身を寄せていたら肝心の会社が潰れ、地元で仕事を探すがなかなか見つからない単身者ぐらいしかいないのは当然です。
東京都心であれば、1部屋15平米でユニットバス付き築50年でも月額8万円で貸せる。それは「土地のパワー」がさまざまな利便性を住民に保証するからです。
2年我慢して東京で仕事を探し、カネを貯めればもっと良い仕事、素晴らしい伴侶、さらに良い賃貸住宅へと羽ばたいていける。そういうチャンスに対して、そこにいるからこそ得られる挑戦権として高い家賃を払っている。たとえ、それが築40年以上の木造ボロアパートであったとしても。
一方、埼玉県川口市本蓮では何の学歴もスキルもない労働者が、逃げられないように社宅などとして職住接近させられ、死んだ目をして朝起きて職場に連れていかれ、1日中、煤(すす)まみれになって働いて疲れ果てて銭湯寄って帰宅して横になるだけという生活です。
出会いや楽しみといった新たなチャンスや飛躍の機会に恵まれることなく、淡々と人生が過ぎていく「場」としての集合住宅ですから、そういうところに腰を落ち着ける住民にとって、風呂無しトイレ共同一間月額1万5000円(当時)で底辺として暮らしていくのが普通のありようでした。
何部屋かはゴミ屋敷のようになるも、トイレが共同な分、アパートの中の最低限の近所付き合いがある、そんな環境だったんです。なんだかんだ、最後のところは助け合って生きている、みたいな。彼らなりに。
働いて、ちゃんと家賃を払え
この現実を知ってから、半年以上家賃を滞納したおじさん、おじいさんたちを家から叩き出す作業に従事しようとなったわけですが……「もう1カ月待ってくれ、絶対家賃は払うから」と懇願する、はるか年上のおじいさんを蹴とばして家財道具放り出して二度と来るなと塩を撒くことは私にはできない。
でもいい歳して水商売みたいな黒シャツを着ているおじさん、こんなアパートでおばあさんのような母親と一緒に住んでるのってマジ底辺だなって思ってました。いつ見てもキャバクラの呼び込みみたいな黒シャツ着てて、こんな未開の地でなに色気づいてるんだと思いました。
しかも、黒シャツのとこのおばあさん、なんか私の顔見て念仏とか唱えてるし。やめろよ。
まあ後から思えば、私も高校生まで慶應義塾高校に通う、食うに困らなかったボンボンだから社会を知らなかった甘い面もあったのでしょうが(バブルが崩壊して大学からはいろいろあった)、これはなんかおかしい、解決する方法があるんじゃないのかなと思ったわけなんですよ。
でも今は、余計なことをせず、ここでセオリー通り家賃滞納者をまとめて蹴り出しておけば悩むことも無かったのだと反省しています。
まずは、当時鳩ケ谷市という川口市の隣に存在していた地域の同業に頼み込んで、失業したまま仕事の見つからないおじさんたちに仕事を出してあげられないか相談しました。
私の会社で雇うと、結局物件も負債も人件費も丸抱えになってしまい、リスクまみれになるからです。私が。
一方で、川口市周辺は「仕事を選ばなければ」働ける先はいっぱいありました。滞納には目を瞑り、斡旋した先でちゃんと働けば家賃待ってあげるよと交渉して、無職生活を満喫していたおじさんたちを次々と職場に放り込んでいきます。
大型免許のあるおじさんは廃棄物搬送に、機械が扱えるおじさんは重金属などの処理に、何もない人にもあれこれお願いし、黒シャツのおじさんは顔なじみの工務店に雇われることになりました。

PHOTO:Starting Over / PIXTA(画像はイメージ)
仕事があるというのは良いことだ。とりあえず働けるおじさん全員が、仕事がある状態に何とか辿り着けました。働け。働いて、ちゃんと家賃を私に払え。
ただ、どいつもこいつも貯金がマイナスで本格的な無一文なようなので、旧知だった鳩ケ谷市(現在は鳩ケ谷市は合併して川口の一部になった;2011年)の市議・I先生にお願いをして、生活保護の手配を頼みました。
このI先生、いろいろやっているうちにご長男が焼肉屋で殺人事件を起こしてしまって大騒動になり、私も事情聴取を受けるうちに大々的に報道され激しく新聞沙汰になったりもしました。
まさか、あんなことになるなんて……最高に面倒くさい体験をしました。頼もしく世話にもなったし良い先生ではあるんだけど、ものには限度ってものがあります。ほんと何てことしてくれたんだ。
「大家のおじさん、どうぞ」
働ける野郎どもはまあ良いとして、住民にはシングルマザー世帯が複数おりまして、母子たちは世を忍ぶようにして暮らしておりました。
皆さん夜職に出るわけでもなく、昼どこかで働く風もなく、ただ淡々と日々子どもたちを小学校に送り出し、ちいさな赤ちゃんもたくさんいて、お昼はお昼で賑やかです。本人は家でゴロゴロするなどして、順調に家賃は滞納していたんです。
いま子育て真っ盛りの私だからこそ、子どもと暮らす大変さはよく知っています。乳飲み子を抱えた単身女性が働きに出るというのは、25年ほど前の未開の地・川口市ではかなり無理であったし、お腹を痛めて産んだ、父親の顔も知らない赤ちゃんや子どもたちを彼女たちなりに愛していたのだと理解できるのです。
が、まだ世間をよく知らない20代独身童貞であった私は、そういう社会的にハイリスクな女性に対する理解を欠いていました。
子育てってのが身に染みて大変だというのが分かったいま、女性が身ひとつで我が子を育てる彼女たちの苦労にもう少し寄り添ってやれば良かったとは思います。ただ、当時は本当にどうしたらいいのかよく分かっていませんでした。
そんなシングルマザーの皆さん、何度訪問して催促しても家賃を納める素振りもないので、さすがにキレかかって叩き出そうかと思いました。正直、みんな態度悪い。私の顔を見るとあからさまに逃げていくし、明らかに中にいると分かるのに平然と居留守を使う。許せん。
そんな折、どこぞの土手で採取してきたのか雑草の黄色いお花を摘んできた女の子が「大家のおじさん、どうぞ」ってくれるんです。

PHOTO:uco / PIXTA(画像はイメージ)
え、私に?
葛藤。ああ、とっても優しい子なんだね、ちゃんと育ってねという暖かい心と、こんな小汚い花なんてもらったって帰りの缶コーヒー代にもならんわという冷たい心が交錯する一瞬です。そして感情の親潮と黒潮がぶつかってプランクトンが大量発生し漁場ができるのであります。
それでも、このくだらない人生で、カネを貸したり家賃滞納したりする人から親切にされた経験など生まれて一度もない童貞の私は感動しました。
まるで、人造人間フランケンシュタインが女の子にお花を渡され一緒に遊んで人の良心が悲しく宿るように——いま思えば、ここで冷たく突き放していれば無駄な苦労することも無かったのだろうと反省しかありませんが、その時はとにかく暖かい心がうっかり勝ってしまい「これはどうにかしたほうがいいのかな」と思ってしまったのです。
女の子をよく見ると、まだ肌寒い初春のころなのに、かわいいけど汚れた薄手のワンピースを着て、明らかに身体に合っていないズックを、かかと潰して履いているじゃないですか。お髪も揃えず洗ってない筆みたいになってボサボサです。
あどけない顔で見上げられて言葉を交わしているうちに、なんとなく不憫に思ってしまいまして。もらったお花はワイシャツの胸ポケットに大事にしまって、また来るからねと指切りをして次の仕事に向かいました。
2日ほどして、約束通り物件に行き、怪訝そうにしているシングルマザーどもとそのお子さんたちを順番に会社のワゴンに乗せて、ファッションセンターしまむらに連れていって母子それぞれにそれっぽい服を買ってやり、靴流通センターで子どもの足に合う靴を仕入れてやる一方、その足で、顔見知りの市議同伴で川口市の生活保護を申請させました。

PHOTO:タカス / PIXTA(画像はイメージ)
そのカネで、生活を立て直して家賃をちゃんと払うんだよ。何度も何度もシングルマザーたちに言い含め(重要)、理解を促し、子どもたちからは別れ際「おじさん、ありがとう」の声。あんだけ態度の悪かったシングルマザーの皆さんも、ころっと態度を変えて深々と御礼をしてくれました。
信長の野望で言えば施しをしたら民忠が上がるやつです。これで良かったのかな。良かったんだろうな。後年、自治体から直接家賃が振り込まれる家賃代理納付制度ができるまでは(生活保護法第37条の2;2006年)、周辺の人が支えてあげるしか方法が無かったのです。
結局、当初は満室で貴重な収益物件と思っていたものが、行く先も仕事もない住民しかおらず、就職の世話から身支度から生活保護の申請まで至れり尽くせりで全部やって、誰1人出ていかず私だけが半年で数百万円のマイナスという実にふざけた経緯となったわけであります。なんだこの罰ゲーム。
いま思うと、この記事をキーボードで打つ手が震えるぐらい怒りと切なさで一杯になるわけですが、まだ話には続きがあります。実に悲しくも、腹立たしい。
こんな状態だった私の初めての投資物件、甘ちゃんだった私が体験することになった悲惨な境遇について、後編にてご説明いたしましょう。
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