温湯温泉、後藤温泉客舎の外湯前

温湯温泉、後藤温泉客舎の外湯前の夕暮れ。早朝から夜10時まで営業しているが、常に客足が絶えない(筆者撮影)

日本人は一般に「風呂好き」、「温泉好き」と言われる。

湯治場(長期間滞在して温泉療養を行う施設)や温泉街とは、単にお湯だけではなく、文化そのものが湧いた場所でもあり、またそこで逗留した文化人によって文学作品や漫画などが生み出されることにも寄与する面があった。

しかし、昭和後期以降、昔ながらの湯治場は急速に姿を消していった。医療の発展や時代の変遷とともに湯治はその必要性を失ったのである。

だがその一方で、東日本、特に東北地方や北関東、長野県にはいまなお温泉街が湯治場、温泉宿が湯治宿であった時代の名残が色濃い温泉地が多い。

これはどういうことなのだろうか? また、湯治場のリアルとはどのようなものなのだろうか。

今回は、青森県は津軽平野、八甲田山のふもとに位置する温湯温泉の街並みと客舎を訪れてその実態に迫る。

湯治文化と湯治場、温泉街の歴史

日本の国土は今なお火山活動が活発で、そこここから鉱泉が湧き出している。この自然の出で湯を利用し、やがて湯小屋を営む家や温泉を利用して生活する村が形成された。温泉にはそれぞれ薬効があり、長く滞在して湯治を行う風習も生まれた。

その中には、より規模が大きくなり、現代まで連なる温泉街や旅館街、観光地帯を形成するに至った場所も数多い。日本で温泉が人々の生活の中に自然と溶け込むのは、風土から見ても必然であったかもしれない。

この湯治文化と温泉街というものは、温泉による治療効果のみならず、その地域の風土や景観、建築、人の移動や生活環を形作り、支える存在にもなった。

江戸時代になると庶民(女性も含む)でも通行証さえあればある程度自由に旅行が可能となり、その通行証を取得する理由として許されていたのはたいてい「神社仏閣への参詣」か「湯治」であった。

湯治はただ湯につかっていればよいというものではない。各温泉地の泉質ごとに、より効果的な湯の入り方が定められていて、たいていは「7日、10日、14日、21日で1巡り」と長期の滞在が必要だった。

旅の人間であろうと病の人間であろうと、それだけ長く同じ土地にいるならば生活のための施設や手段、娯楽が必要ともなり、遊興施設や飲食店も付随して造られていく。

湯治は体を癒す目的もあることから、治癒や薬を司る薬師如来や少彦名、熊野神社などの神仏が勧請されたところも多く、なかには霊験あらたかな由緒ある神仏として湯治客のみならず、多くの一般参詣者を集める例も発生した。

山梨県は下部温泉郷の熊野神社

山梨県は下部温泉郷の熊野神社。下部温泉は骨折や火傷に特効があるとされ、観光地化された今なお湯治に通う人がいる(著者撮影)

温泉街の裏手に立つ熊野神社には湯治客が快癒を願った落書きも

温泉街の裏手に立つ熊野神社には湯治客が快癒を願った落書きが幾重にも残り、一見異様に映る。記録によれば、戦国時代から続く風習である(著者撮影)

これらは近現代になってより大きなインフラの整備が可能な時代が到来すると、温泉・寺社への参詣客の輸送を目的とした私鉄が敷設されるきっかけにもなった。

そういう土地では、遠方からの客をより楽しませるために建築に趣向を凝らしたり、お土産品としての名物・名産品の生産・販売が隆盛することにもつながった。

また今でこそ温泉地といえば観光地というイメージが先行するが、かつて湯治場は農閑期や冬場に体を休めるため、近所からやってくる農民や漁師たち、医者にかかることができない、あるいはかかっても治る見込みがない病に侵された人が多く滞在した。

そうした湯治場の宿は、現代の旅館のように寝具や料理は提供されない。自ら寝る布団を背負い、生活物資や食材は持ち込んだり、自力で調達して生活を送った。服ももちろん自分の持ち物で、洗濯まで自分で行っていたのである。

しかし、昭和後期以降、昔ながらの湯治場は急速に姿を消すこととなる。

消滅の危機を迎えた湯治場の街は、近代的な温泉街として生まれ変わることに活路を見出すか、「昔ながらのひなびた宿」としてブランディングを行うか。あるいはあえて何もせず、やがて消滅しゆく古の時代の残り香としてわずかに命脈を保つことになった。

津軽、温湯温泉へ

そうした歴史をたどってきた湯治場のひとつ、青森県黒石市の温湯温泉。その街並みは、湯治宿にルーツをもつ「客舎(きゃくしゃ)」が共同浴場である外湯を中心に立ち並ぶ、かつての温泉街の姿を今にまで残している。

客舎はよくあるイメージ上の「温泉旅館」のような豪勢な建物ではないし、そもそも建物の中に温泉や浴室すら存在しない。

見た目は古びた木造建築、あるいは雪国でよくみられる木造モルタルの近代建築であり、個室のほかは共同の台所やトイレなど最低限、人が生活するための機能しか備えていない。宿泊者はそこで何日も自炊を行いながら部屋に詰め、外湯の浴場へ通っていたのである。

このような内湯のない宿や建物の並びに外湯が1つあるような湯治場の街並みは、かつては日本各地でよく見られた。大型の宿や旅館、あるいは自分で源泉をもつ宿であれば内湯をもつ例も多かったが、江戸期以来の湯治場はたいていこのような造りをしていた。

しかし、湯治を行う者が少なくなるにつれ、内湯がなく不便な客舎の存在意義は薄れていき、廃業するものや内湯を新たに設けて温泉旅館化するものが相次いだ。

大口の観光客を見込んだ地域では、そっくり街ごと近代的な温泉街へと姿を変える例も多かった。ゆえに温湯温泉の街並みのように、東北の昔ながらの湯治場の雰囲気を街並みごと色濃く残す地域はとても珍しいのである。

私はどうしてもこの温泉街を訪ねてみたく思っていた。そして、その機会に恵まれたのは今から4年ほど前の正月のことだった。

冬の津軽平野

冬の津軽平野。太宰治が小説『津軽』のなかで讃えた岩木山の姿は、晴れてさえいれば平野のどこからでも眺めることができる。その晴れがめったにないのが冬の津軽なのだが…(筆者撮影)

青森県、津軽平野は豪雪と地吹雪に見舞われ、まるで「厳冬」をそのまま形にしたような土地だ。

しかし、北海道のように自然そのものの姿に満ちているわけではなく、猛吹雪にひたすら耐えながら半分傾いたような木造の建物や、昭和で時間の流れが止まったかのような情緒深い町並みが佇む風景が広がっている。

特に弘前や黒石の中心部は、冬場の通行車が寒さや雪を避けて歩けるように「こみせ」という木製のひさしが歩道に設けられたものがよく見られる。

個人的にこうした風景に対して、涙が浮かぶほどに侘しく懐かしい感情が湧いてくる。黒石市中心部から八甲田山系へ10キロほど向かった先にある温湯温泉には、まさにそんな冬の津軽のひなびた町並みが広がっていた。

国道から色が剥げかけた温泉街の看板をくぐり、曲がりくねった狭い道を下っていくと、廃業して今は民家になった客舎の間に、外湯の「鶴の名湯 温湯温泉共同浴場」が現れた。

国道から温湯温泉の街へ入る角にある看板

国道から温湯温泉の街へ入る角にある看板。昔はどこの温泉街にもこのような看板があったものだ。塗装が剥げた風格がひなびた雰囲気を醸し出す(筆者撮影)

温湯温泉は遠い昔、この湯に浸かって傷を癒していたツルの姿を土地の人間が目撃したことから発見されたという開湯伝説があり、外湯の名はそれに因んでいる。

この外湯のすぐ目の前が、その日の宿……後藤温泉客舎であった。温湯温泉の中でも、とりわけ古の湯治スタイルを続けている宿である。玄関先には、津軽こけし型の灯籠が吊られ、妖しげな雰囲気を醸し出している。この日の宿泊客は、私1人のみであった。

サッシの玄関を開けると、暗い廊下の奥から津軽訛りの年配の女将さんが出迎えてくれた。客舎の建物が建てられた時期は正確にはわかっていないそうだが、少なくとも明治期だという。

靴に着いた雪をはらいながら案内された先は、入口からすぐ左隣の出入りのしやすい部屋だった。一般的な宿の感覚に慣れていると面を食らうほど外との距離が近い。

外窓から廊下を挟んで障子を開ければすぐ部屋の中という位置関係に、いい意味で「ウチ」と「ソト」の境界が曖昧だった古い時代の感覚をひしひしと感じる。これなら冬場でも、部屋からつっかけを履いてすぐ外湯へ向かえる。本当に湯治に特化した建物なのだなと思った。

部屋正面から廊下と玄関扉を見る

部屋正面から廊下と玄関扉を見る。玄関すぐ横の明かりがついた部屋が当日の宿泊部屋だった。どれだけ外からすぐの位置関係かがお分かりになるかと思う。ガラス1枚向こうはすぐ外であり、冬場は身も凍るほど寒いが、温泉に浸かればすぐそれも忘れる(筆者撮影)

年季の入った部屋はストーブが焚かれており、テーブルの上にはりんごと宿帳、そして外湯の入浴券が1枚載っていた。りんごは女将さんのサービスで、青森らしい暖かみが沁みた。

実際に客舎に泊まって味わった魅力、こうした温泉街が衰退の道をたどる背景については、続く後編の記事で詳しくお届けしよう。

道民の人