
たまプラーザ駅は、多摩田園都市の核として整備された(撮影:小川裕夫)
昭和の時代、戦前期から戦後の戦災復興期、高度経済成長期、バブル期を通じて主に住宅地が盛んに開発され、それに伴って東京の地価は右肩上がりで高騰した。そのため、戦後間もない頃からデベロッパーは「郊外」に着目した。
東京で郊外開発を積極的に進めた事業者は多々あるが、なかでも東急電鉄は鉄道とのシナジー効果を最大限に発揮したデベロッパーでもある。本稿では東急が開発した住宅地、「多摩田園都市」を取り上げる。
東急田園都市線の沿線を中心に広がる多摩田園都市は、もとより住宅地として成功が約束されている場所ではなかった。過去には、近隣エリアで小田急電鉄が大規模開発を行ったものの、思うように計画が進まなかった経緯もある。
そこからどのようにして、5000ヘクタールにもおよぶ住宅地ができあがったのか。昭和30年代から始まる開発の軌跡をおさらいすると、東急がまちづくりに燃やした執念が見えてきた。
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2025年は「昭和100年」にあたる節目の年だ。『鉄道がつなぐ昭和100年史』を上梓した小川裕夫氏が、「昭和」という時代を「鉄道」と絡めた視点で振り返り、鉄道事業者が築いた街を分析・総括する。
東急の住宅地は「田園調布」だけじゃない
東急電鉄は渋谷駅をターミナルに、東京都・神奈川県に路線を有する大手私鉄だ。
1938年に施行された陸上交通事業調整法によって、東京西南部をカバーエリアにしていた東京横浜電鉄(東横電鉄)・京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)・小田原急行電鉄(現・小田急電鉄)・京王電気軌道(現・京王電鉄)などが1社にまとめられて誕生した。
それぞれの鉄道会社は戦後に再分離していくが、核となった東横電鉄は引き続き東急の社名を継続使用した。
東急の源流は、渋沢栄一が理想の住宅地を造成することを目指した田園都市株式会社にある。渋沢が造成した田園都市は洗足田園都市(大田区・品川区・目黒区)や田園調布(大田区・世田谷区)で具現化したが、これらは大正期に造成されている。
本稿で話題にする「多摩田園都市」は東急電鉄の創業者・五島慶太の手によるものだ。神奈川県の川崎市、横浜市、大和市と、東京都町田市にまたがっている。

多摩田園都市の開発エリア。神奈川県の川崎市、横浜市、大和市と、東京都町田市に街が広がる(東急グループHPより引用)
五島は渋沢が興した田園都市株式会社で鉄道部門を担当したことで、渋沢の近くで不動産開発を学んだ。五島が意欲を見せた多摩田園都市は渋沢の影響を大きく受けている。
歳月の経過もさることながら、戦後の東京は住宅難によって新しい住宅を大量に必要とした。東京は戦災で焼け野原になっていたが、それでも不動産価格は高止まりしていた。そもそも庶民も、戦後は住宅にお金を投じられるような余裕はなかった。
東急の五島慶太は戦災復興によって東京が甦るどころか、戦前期よりも繁栄することを予見し、自社沿線に住宅地を開発することを目指した。
これは、東京都心部が発展していくことで東京に人口が集中すると考えていたことが根底にある。
五島は東條英機内閣で運輸通信大臣を務めた経歴から、GHQが断行した「公職追放」により、公職から退かなければならなかった。そのため、戦後すぐに動くことができず、1951年の追放解除を待たなければならなかった。
しかし、不幸中の幸いともいうべきか、五島が復帰した頃には戦後の混乱は収まりつつあった。食糧事情も改善し、人々が次に求めたのが住宅だった。
五島は旧来から温めていた田園都市の計画を1953年に城西南地区開発趣意書として正式発表する。それは後年に多摩田園都市と発展を遂げていく。
幻の「林間都市」計画
五島が夢見ていた多摩田園都市は、それまで形成されていた住宅地とは切り離された無人の荒野に造成されている点から、現在でいうところの「ニュータウン」に相当するが、一般的なニュータウンとの違いは五島の都市への思想にある。
ニュータウンは主に行政主導で計画・建設されたこともあり、都市計画や建物などは効率性を重視する傾向が強い。
一方、多摩田園都市は単に安価な住宅地を大量に供給するようなことを意図していない。あくまでも良質な住宅地を理想とした。
渋沢が志した田園都市も良質な住環境を重視し、それが田園調布をつくりあげた。五島はそれを模倣しつつ、上回る街を目指した。
東急は渋谷駅から中央林間駅までを走る東急田園都市線を1984年に全通させている。同線は東京都渋谷区・世田谷区、神奈川県川崎市・横浜市・大和市、東京都町田市を貫く。
渋谷区や世田谷区は戦前期から高級住宅街が形成されていたが、川崎市・横浜市・大和市・町田市などは農村然とした風景が残り、鉄道を利用して渋谷方面へと通勤・通学する需要は少なかった。
そうした状態を五島の多摩田園都市が大きく変えていくわけだが、同エリアは戦前期に住宅地を開発する機運があった。
それを進めていたのが新宿駅をターミナルにしていた小田急だ。小田急は、田園調布に倣って相模大野駅から分岐する江ノ島線の沿線に高級住宅街を計画した。
小田急は周辺の土地を100万坪も購入し、同住宅地を渋沢の田園都市田園調布に対抗して「林間都市」と命名した。
江ノ島線には東林間都市駅・中央林間都市駅・南林間都市駅の3駅が開設される。林間都市の中心は、その名称とは異なり南林間都市駅に定められた。

南林間駅の一帯は、小田急が理想の住宅地として戦前期に開発した(撮影:小川裕夫)
南林間都市駅前には田園調布を彷彿とさせるような半円状と放射状に延びる街路が組み合わせて造成された。さらに、田園調布を凌ぐほどの大邸宅を建設可能にするべく、120坪6区画・300坪8区画・500坪6区画が分譲されている。
いくら郊外といっても、これほど豪勢な邸宅は当時でもめったに見られるものではない。明らかに富裕層をターゲットに据えていたことが読み取れる。
しかし、小田急の林間都市は成功しなかった。なぜなら、当時の感覚として、林間都市は都心部から遠すぎたのだ。
当時の東京は、丸の内・銀座・日本橋といった東京の東側が行政・ビジネスの中心地とされていた。
いくら小田急が新宿までの直通列車を走らせていても、林間都市3駅から東京中心部までの所要時間はゆうに1時間を超えてしまう。これでは、とても通勤には向かない。
そうした要因が忌避されて、林間都市は思うように移住者を集められずに住宅整備は進まなかった。その影響もあり、1941年には3駅から「都市」の名称が消える。
「鉄道」が発展のきっかけに
こうした前史があったので、東急の多摩田園都市も周囲から容易な事業ではないように思われていた。
ところが、五島は鉄道会社の経営者にも関わらず、鉄道とセットで整備することを想定していなかった。
五島は、きたるモータリゼーションを意識して高速道路をはじめとする自動車交通を軸にした都市整備を念頭に置いていた。東急という鉄道事業者のトップにも関わらず、五島は鉄道よりも自動車に将来性を見出していたのだ。
それが一転して鉄道とセットで整備されていくことになるが、その方針転換には2つの理由があった。まず、1つ目の理由としては、地元住民たちから鉄道整備を要望されたことが挙げられる。
2つ目の理由は、五島が実現に向けて意欲を燃やしていた東急ターンパイクという高速道路計画に対して、建設省(現・国土交通省)が難色を示したことが挙げられる。
建設省は「道路整備は国が主導する」との方針から、1956年に日本道路公団(現・JH)を設立。日本道路公団が高速道路などを整備することになり、五島が目指した自動車を軸にした都市計画はスタート前に破綻した。
そこで、改めて鉄道を軸にした開発方針へと転換した。
ワンマン経営者として辣腕を振るった五島なので、地元住民からの要望だけで自分の信念を曲げることは考えづらい。後者が五島を翻意させた最大の理由と思われる。
五島は1959年に志半ばで没するが、父の遺志を引き継いだ息子の五島昇が多摩田園都市の開発を継続していく。
1961年、川崎市に最初のモデル地区が竣工。その後も東急は、当時の大井町線(後に田園都市線に改称)を延伸させる形式を取りながら、1984年に中央林間駅までを完成させた。
中心地「たまプラーザ駅」命名のナゾ
昇が、多摩田園都市で東急総帥としての手腕を発揮したのがたまプラーザ駅(横浜市)だ。
たまプラーザ駅が所在する場所は元石川という地名で、「たま」は言うまでもなく多摩を意味し、「プラーザ」はスペイン語で「広場」を意味するplazaに由来する。
奇抜なネーミングだが、たまプラーザの名称は昇が考案した。そうした経緯からも、同エリアの開発に意気込みを感じさせるが、この駅名になったことで東急は駅周辺開発に情熱を注ぎ込み、駅前には東急系列の商業施設が立ち並んでいった。

たまプラーザ駅周辺には東急グループの商業施設が多く並ぶ。たまプラーザTERRACEもその1つ(撮影:小川裕夫)
たまプラーザの駅前から少し歩くと住宅地へと風景は移り、ここには第2の田園調布と呼ばれる高級住宅街が形成されていった。
たまプラーザの駅前に田園調布のような整然とした街路は整備されていないが、住宅地にはクルドサックが整備されるなどの特徴的な街並みになっている。
クルドサックは東武鉄道が戦前期に高級住宅街として整備した常盤台(東京都板橋区)に見られる袋路で、そのほかにもラドバーン方式と呼ばれる歩車分離も導入された。

たまプラーザ駅周辺の住宅地で見られるクルドサック。車がUターンできるスペースを備えた行き止まりの道路のこと(作者:Yoit、ウィキメディア・コモンズより引用)
道路・街路にこだわったあたりに、多摩田園都市がマイカーを前提とした五島の思想を読み取ることができる。
複数路線と接続し、人口増加に拍車
たまプラーザ駅は多摩田園都市の中心と位置づけられたが、自動車交通を軸に計画された背景から鉄道的な特徴は乏しかった。それでも1993年には、横浜市営地下鉄ブルーラインが、隣駅であるあざみ野駅(横浜市)まで延伸。
ブルーラインは横浜駅と桜木町・関内という横浜の中心地を結ぶほか、新横浜駅、さらには港北ニュータウンを貫く路線にもなっているので多くの需要を見込める。
ブルーラインと田園都市線が接続したことで、多摩田園都市全体の交通利便性は格段に向上。ますます沿線人口の増加に拍車がかかり、田園都市線の利用者も増加した。そのことから、2002年にあざみ野駅は急行停車駅へと格上げされる。
あざみ野駅は、1966年に開業し国鉄(現・JR東日本)の横浜線と接続する長津田駅とともに、横浜と東京とをつなぐ結節点として発展する。

長津田駅は横浜線とも接続し、いまも駅前は開発が続く(撮影:小川裕夫)
ところで、現在は渋谷駅―中央林間駅の区間全てが「田園都市線」として運行されているが、以前は渋谷駅―二子玉川駅間が「新玉川線」、それ以外が「田園都市線」という2つの路線になっていた。2000年に路線名が改称され、両者が「田園都市線」に統一されることとなる。
2つの路線に分かれていた頃も、特に乗り換えが発生していたわけではない。利用者も気にする必要はなかったが、改称前年の1999年には田園都市線区間の最高時速が110キロメートル、新玉川線区間が90キロメートルへと引き上げられて、所要時間が短縮。
これが多摩田園都市の通勤圏拡大になることから、人口流入を促した。
最高時速の引き上げや田園都市線への統一は、長津田駅で接続する「こどもの国線」にも影響を及ぼした。「こどもの国」は旧陸軍用地だった場所で、戦後は米軍に接収されていたが1965年に児童厚生施設へと生まれ変わっている。

こどもの国は、厚生施設として1967年に開業(撮影:小川裕夫)
長津田駅からはこどもの国線と呼ばれる路線が延びているが、同線はこどもの国へアクセスが目的なので、運行は8時~18時台に限られていた。このダイヤでは日常生活の足として使いづらい。
東急は2000年にこどもの国線の「通勤線化」を打ち出し、長津田駅とこどもの国駅の間に恩田駅を新設。現在、こどもの国線は平日の通勤・通学需要にも対応しており、平日は5時台から24時台まで、朝ラッシュ時は12分間隔、夕ラッシュ時は10分間隔で運行されている。

全線が単線のこどもの国線を走る電車(撮影:小川裕夫)
東急グループが一丸となって多摩田園都市に心血を注いだ成果もあり、エリア人口は開発当初の約1万5000人から開発50周年を迎えた2003年には56万人に達した。
2011年には開発総面積が5000ヘクタールにもおよぶ広大な多摩田園都市の開発計画が完了した。計画完了後に人口増は鈍化したものの、その後も人口は増え続けて2013年に60万人を突破している。
押し寄せる高齢化の波
東急が開発に取り組んだ多摩田園都市の発展は平成後期まで続いたが、他方で、地方都市は平成期から人口減という社会問題に苦しんでいる。
多摩田園都市は東京・横浜のベッドタウンという要因に支えられて、郊外というハンデを負いながらも人口減による大きな衰退は見られない。
それでも開発が盛んだった頃に住み始めた世代が高齢化し、2000年頃から顕著になっている都心回帰の影響を受けて若年世帯の流入が滞っている。
住民の高齢化は街の新陳代謝を鈍らせ、活気を奪っていく。
多摩田園都市には各駅からバスが頻繁に運行され、駅から離れていても交通の利便性は高いエリアだった。しかし、丘陵地という地形的な特性も相まって、バス停から自宅までの距離は短くても高齢者にとって身体的・精神的な負担が強い。

東急が取り組む自動運転バスの様子(撮影:小川裕夫)
東急は多摩田園都市で新たに浮上している高齢者の移動困難という課題を解消するべく、虹が丘(川崎市)やすすき野(横浜市)といったエリアで、自動運転のバスの実証実験を始めた。
将来的に自動運転バスを多摩田園都市全体に広げることで、持続可能な住宅地を目指そうとしている。虹が丘・すすき野での取り組みは、その第一歩に過ぎない。
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こうした郊外住宅地を衰退させないような取り組みは各地で始まっているものの、人口減少・都心回帰という社会全体を大きく変える流れにまでには至っていない。
創業者の悲願だったことから東急グループが一丸となって開発に取り組み、その成果もあって多摩田園都市は郊外住宅地の勝ち組だった。そんな多摩田園都市といえども、決して安泰とは言い切れないのだ。
(小川裕夫)
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